観たり読んだり備忘録

片端から忘れてしまう観たものや読んだものを、記憶にとどめておくためにちょいちょいと走り書きとして残してます。それ以外もちょこちょこと。

ワンダーウーマン(2017)

ちょっと前に「ワンダーウーマン1984」を先に観てしまい、「あ~、先にこっちを見ておけばよかった」と後悔していたので、時間を見つけて視聴。

約100年前。大神ゼウスにより創造された女戦士のアマゾン一族は外界とのかかわりを嫌い、結界を張ったセミスキラ島で暮らしながら、互いに競い合い、戦士としての腕を磨いていた。
ダイアナはその中で、女王ヒッポリタの娘として成長していった。女王はダイアナに戦士になってほしくはなかったが、ダイアナ本人の強い希望で戦士としての修行を行い、非凡な才を見せるのだった。
ある日、結界の間隙を縫って、ドイツ軍の船がセミスキラ島沿岸までやってきた。そこから逃げてきたアメリカ軍のスパイ・スティーブはダイアナに助力を乞い、アマゾン族とドイツ軍は激しい戦闘に突入した。
大きな犠牲を出しながらも、ドイツ軍を配送させたダイアナ達。回復したスティーブから第一次世界大戦の話を聞き、ゼウスが懸念している軍神アレスの仕業に違いないと確信したダイアナは、自分の力で世界を救いたいと、母である女王に島の外へ出る許しを請うが、女王はそれを許そうとはしなかった。
ダイアナには軍神アレスを引き付けるパワーが生まれながらに備わっており、ダイアナがその力を開放すれば自ずからアレスを引き寄せることが女王にはわかっていた。しかし、ダイアナの堅い意思を見て取ると、「二度とこの島には戻れない」と言いながら、我が子を送り出すのであった。
イギリスに到着したダイアナは、スティーブの秘書という名目で軍に潜り込んだが、イギリスはドイツと停戦交渉を行おうとしていた。しかし、スティーブの得た情報によるとドイツでは天才科学者の手により強力な毒ガスが開発されており、それを使われれば一般市民を巻き込んだ甚大な被害が懸念された。
ティーブは軍には内密に私兵を集め、ドイツ軍の目論見を阻止しようと動き出し、ダイアナもそれに同行するのだった・・・

ダイアナ、ものすごく美人なので許されがちだが、最初から最後までわがまま言いっぱなし・・・
島では伝説の聖剣「ゴッドキラー」(すげぇ名前・・・)やヘスティアの縄、防御力抜群なコスチュームをこっそり持ち出すし、スティーブの言うことを全然聞かずに軍議に口を出すし、戦闘ではもちろんやりたい放題。
でもなぁ。きれいだからなぁ。仕方ないよなぁ。
最初「アレスアレス!」とダイアナがまるで信じて疑わないので、これってエアーアレス(空想上の産物)なんじゃね?と思ってしまうのだが、それはもちろん制作側のミスディレクションで、アレスはちゃんと存在する。ただ、結構最後まで分かりづらい感じはした。
やはりスーパーヒーローものなので、体を張ったアクション的戦闘になるのは必然なのだが、見せ場を盛り上げるためには相手もそれなりに強くないといけないわけで、なるほどアレスがいないと成立しないストーリーなのは納得。
しかし、戦争をやっている最中に一介の尉官が私兵を集めて敵国と戦闘行為を行うというのは大丈夫なんだろうか?国際法違反とかにならないのだろうか。その辺の説明はもうちょっとしてほしかった。

そしてラストでは、なるほどそういうことであったか。これが「1984」につながっていくのね。あ~、やっぱりこっち先に観たかったな~。
最終的にはダイアナは現代アメリカ文明にすっかりなじんで、博物館で働きながら優雅な都会生活を満喫している。適応力高いなぁ。「私は自然の中じゃないと」とか言いながら森の中で暮らす、とかではないんだな。
街なかの諸悪と戦うスーパーヒロイン誕生の逸話なので、そういう世捨て人ではイメージが食い違うのだろう。

地獄の田舎暮らし(2021 柴田 剛)

生まれも育ちも現在地も結構な大都市で、ごみごみした風景にげんなりしている。
どこまで行ってもアスファルトで、ちょっと高いところから見渡しても地平線まで人工物が埋まっている。
コンサートや演劇、展覧会などに足しげく通うこともないし、お酒が飲めないので夜の街にも縁がなく、引きこもり体質であることもあって、都会にいるメリットをほとんど感じない。
いつか経済的に許される日が来たら、自然が豊かな田舎に暮らして、澄んだ空気と木漏れ日、涼やかな気候、おいしい水や食べ物を味わい、夜は薪ストーブで焚火をして過ごしたい、と思うのも無理はないと我ながら思う。
Youtubeで田舎の古い民家のリノベーションや地方移住の動画をあれこれ見たりして、いつかは僕も・・・と妄想を膨らませたこともある。
しかし、現実は・・・というのが本書。

今、コロナ禍でテレワークが普及し、都会に住まなくても仕事が成立するようになってから、一大移住ブームとなっている。
昔だったら見向きもされなかったような物件が飛ぶように売れ、不動産業者もこの需要を当て込んで、山林を開拓して別荘地・住宅地を開発し、それがまた売れている。
そのため、移住者は多くなっているが、定住する人は増えていないという。
それは、移住したもののうまくいかず、都会へ戻ったり別の場所へさらに移住してしまうケースが多いことを示唆している。
そもそも、地元の人たちは移住者を快く思っておらず、自分たちの土地によそ者がやってくることにおおよそ寛容ではない。
都会で成功し、お金を稼ぐことができたからこそ、移住という消費が行えるわけで、その余裕がある移住者を嫉妬心をもって見ている。
そのため、そもそもどんなに受け入れてもらおうと努力しても、マイナスからのスタートとなり困難な道のりになることが予想される。
また、今から購入できる家や土地は、この一大ブームの中で売れ残った案件であるわけで、何らかの問題があると疑ってかかる必要がある。
いろいろなことを確かめたはずと思って購入しても、土地保有者の思惑や業者の暗躍で、目の前の風光明媚な風景があっという間に宅地造成されたり、ソーラーパネルが敷き詰められた無惨な光景となる可能性もある。
移住イコール相当な額のお金を消費する、ということなので、地元の人間や業者がここから利益を得ようとあの手この手で攻めてくるのをかわし続けなければならない。
また、移住者同士でもマウンティングや怪しげな団体への勧誘などがあり、問題は尽きない・・・

とにかく田舎移住に関するデメリットが怒涛のように展開され、息つく暇もない。
表現もだいぶ煽情的というか扇動的なので、ちょっとオーバーに言っている部分もあるのではないか、という気もするが、まあそれくらいで受け取っておいてちょうどよいということなのだろう。

ただ、最後に「それでも移住したい人」に向けたある夫婦の例が紹介されており、胸を打たれた。
ある地域を気に入ってそこに別荘を購入した夫婦は、子供が小さい時から成人して大人になり巣立っていくほどの期間、その別荘地で別荘を保有し続けたが、ずっと同じ家屋ではなく、何度か買い直しをして、地元の良さや問題を理解し、情報を収集した上で、よりよい別荘へとグレードアップしていった。
最終的には個人の農園も保有し、様々な果物を丹精込めて育てたという。
そして最後、もう別荘は必要ないと判断し、壊れた個所は丁寧に補修した上で、希望の金額で売ることができたのだそうだ。
しっかりと時間をかけて情報を集め、その土地を好きになりリスペクトを持つことが重要だと教えられた。
他にも、道路へ出る道は南に作る(北に作ると凍って溶けなくなりアイスバーン化)とか、景観は自分の土地の林で作る(広く使おうと全部伐採してしまうと、隣の土地にソーラーなど建った時に視線を防げない)、などの実践的な知識も役に立った。

まあでも、これだけの話を読んでしまうと、田舎への移住はしたくなくなってしまったなぁ。
たまに行くくらいがちょうどいいのかな、やっぱり。

 

 

おやすみ オポチュニティ(2022)

Amazon Primeで公開されたドキュメンタリー映画

2003年、NASAが火星に送り込んだ探査車(ローバー)、「オポチュニティ」と「スピリット」。これらは火星探査活動を行う前提で作られた。自律的に動き、様々なデータを取得して地球へ送信するのが彼らの役目である。
地球で様々な実験や改造を繰り返し、決められた納期に間に合わせるために様々な工夫ないしは間に合わせの処置が施され、なんとか2台は期限に間に合い、火星へと打ち上げられたのだった。
当初は90日程度が活動限界とされていたが、ありがたいことに強い嵐に見舞われたせいで、ローバーの太陽光パネルから粉塵が綺麗に取り去られており、オポチュニティとスピリットはまだまだ稼働が可能な状況にあった。
そこで研究者たちは、当初の予定にはなかった大探索旅へ彼らを送り出すのだった。

火星に到着して着陸する方法はどうしても例の有人月面探査っぽい奴を思い浮かべてしまうのだが、本件ではなんと全体を丸いエアクッションで覆って、そのまま上空から落としてボインボイーンとボールが弾む感じで衝撃を吸収しておろすというもの。
火星に大気があるからこその方法だが、なんというか力技な感じがする。
また、基本的に距離が離れすぎていてリアルタイムでの指示やラジコン的なコントロールは行えないので、おおよその命令を送信し、それを受け取ったローバーがある程度解釈して自律的に動くという方法が取られている。これだと不測の事態が起きたとしても、ある程度はローバーが自力でリスクを回避する余地が生まれる。
このため、ローバー達は単なる機械や端末ではなく、NASAの人たちにとっては愛する家族の一員として扱われており、スタッフの人々が如何にオポチュニティとスピリットを大切にしているかが入念に描かれている。
それを表すエピソードの一つが、ローバー達に対して毎朝かけられている「目覚めの一曲」。時間感覚が失われがちなNASAでは伝統的なことなようだが、彼らローバーに対しても毎朝違う曲が送られる。
正直米英ポップスにはあまり詳しくないので、よく知っている人だったら感涙にむせぶところもあったのだろうが、ちょっとピンとこなかった。でも、これ聞いたことある!的な曲は何曲もあって、グッとくるメジャー曲ばかりが選曲されていたのだろうなあと察せられる。
また、NASAの人々も非常に人間的というか、優秀且つ知性・理性的なこの分野のトップの方々が集まっているとはいえ、彼ら彼女らもそれぞれが一人の人間であって、豊かな感情を持ち、むしろその感情でコミュニケーションを行うことによってNASAという組織が強固かつ柔軟に運営されている様子が見て取れて興味深い。
ローバーの冒険に対してスタッフがワクワクしていたり、不調を真剣に心配していたり、連絡が取れなくなって涙ぐんでいたり、というスタッフの感情の躍動感も見どころの一つだった。
また、オポチュニティは最終的には15年もの長期間稼働し続けることになったが、当然ながらNASAではメンバーがリタイアしたり新メンバーが入ってきたりしており、後ろ髪をひかれるように去っていった人、ニュースでローバーのことを知ってNASAを志し、見事担当を射止めて意気昂揚している若者などの人間模様も優しい目線で描かれていて、いいなあこんな職場で働きたいなあ(エリート集団すぎて無理だけど)と思わせるものがあった。
最後、一台だけ稼働していたオポチュニティが稼働停止するところは、さながら家族の死を看取る感じで、悲しいけれど荘厳で神聖なものを観ているような、そんな気にさせられた。

日本ではモノにも魂が宿る的な考え方は割と一般的だが、アメリカでもそういう見方をするんだなぁというのは新鮮だった。まあでも、けなげに働く機械って、万国共通でかわいいんだね。

聖闘士星矢 The Beginning(2023)

ネタバレがっつりしているのでこれから観る人はご注意を。
もちろん事前に、「大爆死」「空席だらけ」などという情報は入っていたので、内容はおおよそ想像がついたが、小中高とこの漫画・アニメでお世話になりっぱなしであり、大きな影響を受けたコンテンツの実写ハリウッド劇場版とあっては、お布施を払わずにはおれない。ということで観てきた。
GW中の平日朝8時半上映開始という早い時間だったからなのか、それとも不人気故なのか、観覧者は僕を入れて8人。少ない~。
ほぼ全員、一人で観に来ている同世代のおっさんであった。まあそうなるよな。

星矢は地下の格闘場で戦う日々を送っていた。幼いころに生き別れとなった姉を探しながら。
そんな中、星矢はある不思議な力が宿り、それを追ってある組織に追われるようになる。その力とは「小宇宙(コスモ)」と呼ばれる聖闘士(セイント)の力であり、女神アテナの生まれ変わりであるシエナを守ることが運命であると告げられる。
シエナは実母:ヴァンダー・グラードに命を狙われており、父であるアルマン・キドの庇護のもと、匿われていた。
星矢はワシ座の聖闘士マリンの元で修業を積み、コスモを爆発させることで聖闘士としての力を使いこなし、ペガサス座の青銅聖衣(ブロンズクロス)を身にまとうことができるようになった。
しかし、ヴァンダー側にも鳳凰座(フェニックス)の青銅聖闘士・ネロがいた。二人の激闘が始まった・・・

映画を観に来る人はほぼ全員が昔のあの聖闘士星矢を実写で観たいと思ってきているわけだが、やはりハリウッド化された実写映画の宿命として、原作や元アニメをなぞるようにはならないのが世の常である。
本作もその例に漏れず、「聖衣がキラキラしてない」「聖闘士が美少年じゃない」「技名を叫ばない」などの肩透かし要因があり、それで皆がっかりしたと思われる。もちろんワタクシもがっかりしたクチである。
ただ、本作では聖衣をデザインするにあたり、原作者・車田正美は「原作の再現が大事なわけではなく、自分が聖衣をデザインした時も古代ギリシャの鎧を参考にした」というようなことを言っていたとのこと。また、CGには頼らない製作を行っており、その結果、遺跡で発掘された感じの甲冑のイメージが強い聖衣になっている。
まあ、原作者がそう言ったらそうなってしまうだろうなぁ。
ただ、製作側は、おそらく青銅聖衣という言葉で、二千年くらいたって青錆が浮かんだ遺跡物を思い浮かべてしまったと思われる。
実際使用されていた二千年前当時はもっとピカピカに磨かれて使われていたのではと思うのだが・・・せめて磨いてほしかったなぁ。
また、大人が観るに耐えるストーリーにする上で、技名を叫ばないというのも妥当な選択だとは思うが、それがないとただの殴り合いになってしまうので、もう少し工夫が欲しかったところ。
この聖闘士星矢というコンテンツを今の時代で一から作り直したいという製作側の意図はわかるしすごく頑張っていた。そこは評価したい。
ただ、劇場に足を運ぶ人の9割は懐かしいあの感じを味わいたくてお金を払っているわけで、そのファンへの配慮ももう少し欲しかったのが正直なところ。

しかし新田 真剣佑の筋肉がすごい。これCGだろ、と思うくらいのすごさ。
ものすごい努力の跡が見えて、それだけでちょっと感動した。
アテナがハリウッドのヒロインぽくて笑った。全くお嬢様っぽくないというか、生意気なことばかり言っていていつもケンカ腰、だけど時々デレる。
でもアテナとして覚醒すると、金髪だった髪が紫に変わるという原作への近づけ方となる。
あと、本作ではアテナの覚醒自体が世界への脅威として扱われているのが興味深い。海神ポセイドン編も、冥王ハーデス編も、アニメオリジナルのアスガルド編も、本来は神が覚醒して世界の脅威となることを阻止するのが聖闘士たちのおおよその目的であったわけで、アテナ自体もその脅威の一つという解釈は目から鱗だった。
また、原作で一番ダサいというか、もうちょっと考えろと思うのが、聖衣を重そうな箱に入れて背負って運ぶという持ち運び方なのだが、ペンダント型にしてスタイリッシュに処理していた。さすがに21世紀の聖闘士星矢で「箱を背負う」はないよな。
まあ、そこは「聖闘士星矢Ω」の「聖衣石(クロストーン)」に倣ったということだろう。どう考えてもこっちの方がかっこいい。
あと、今回の敵役であったフェニックスのネロは、戦いの後、いて座の黄金聖衣のペンダントを持ち去っていた。
原作からモヤモヤしていたのが、聖闘士が最初からその聖衣の聖闘士として修業を積み、例え聖闘士の中の一番階級が低い青銅聖闘士(ブロンズセイント)だったとしてもそのまま一生を終えるのか、それとも力をつけていく中で徐々にランクアップして白銀聖闘士(シルバーセイント)→黄金聖闘士(ゴールドセイント)と格を上げていくのかという点。
原作の星矢たちは必要な時にだけ黄金聖衣を使うものの、普段は青銅聖闘士のままで過ごしていた。物語の終盤では自分たちの持つ聖衣の方が「神衣(カムイ)」にバージョンアップしたりしていたが、原則ランクアップなし。
聖闘士星矢Ω」では「伝説の青銅聖闘士」の面々が黄金聖闘士となっており、ランクアップしているように見える。
もちろん原作原理主義的な考え方であればランクアップなし、周辺作品も含めればランクアップあり、ということなのだろうが、本作でも一定の解を示してほしいわけで、ネロのエピソードからはランクアップありを示唆しているようである。
「The Beginning」を謳っている以上は次回作を想定しているということで、そこで解を示してほしいものだが、今の興行成績で次作が作れるかどうか、そこが難しいところだな。個人的には応援しています!

 

kotzmovie.jp

太平洋ひとりぼっち(1963)

子どものころ、一人でヨットで太平洋を横断する、子供向けに書かれた写真がいっぱい載っている本を買ってもらい、何度となく読み返していた。
それが日本人初横断を達成した本作の元ネタとなっている堀江謙一氏なのか、別の方の話だったのかはもう覚えていないのだが、その印象がとても強く残っており、プライムビデオでたまたま見かけたので観た。

1962年、周りからの強い反対を押し切り、青年・堀江謙一は、まだ日本人では誰も成し遂げたことがない、ヨットによる単独太平洋横断の旅へと出発する。
この度のためにヨットを設計・建造し、何度となくシミュレーションを繰り返し、持っていく道具や食料なども綿密に計算した。
結局パスポートは取れなかったので、現地で留置場へ入れられ、強制送還される前提であり、自分の息子が牢屋へ入れられるなんてと母は泣いたが、冒険へのワクワク感と野心は止めようがない。
真夜中、周りに見つからないようにこっそりと出港したのだった。
しかし、いくら待っても風は吹かず、大阪の海から出ることすらできない。待ちくたびれたころやっと風が吹いて進めたと思ったら大嵐に巻き込まれ、船中は水浸しである。
旅を続けていると、大丈夫と思っていたビニール袋詰めの水のいくつかは変質して飲めなくなっていたので大海原へ捨てた。
船底に貝が付着し、船の進むスピードが落ちるため、体にロープを巻き付けて海に飛び込み、棒の先に空き缶を付けて貝をゴリゴリ削り落としたが、凪の海でもヨットは進んでおり、ロープがなければ置いてけぼりになりそうになる。
甘いものを食べつくし、バターと砂糖とクリープでケーキまがいのものを作ってみるが、余計にケーキへの渇望が増えてしまったり。
楽天家な堀江でも、ついには望郷の念にとらわれてしくしく泣きだしてしまうのだった。
それでも決してあきらめず、ヨットを進めていく・・・

いまでこそ辛坊治郎氏もチャレンジされたりしているが、これは最新の機材や通信をフル活用しているのであり(もちろんチャレンジ自体が過酷で意義のあるものであることは疑いようの余地はない)、1960年代当時はそれらの便利な機材は一切ないし、大企業のバックアップがあったわけでもない。むしろ周りからは反対される中それを押し切っての強行軍であり、非常にリスクの高い行動であったと思われる。
しかし、「リスク」などと言っているから冒険ができないのであって、むろんのことそのリスクを下げるための綿密な準備と計算は必須であり堀江謙一もそれを行った上での行動であるものの、根底にあるのは冒険への渇望である。
どんなトラブルや死の恐怖をも押しのけ打ち勝つモチベーションがそこにはあるわけで、何よりそれが一番素晴らしく、そしてうらやましい。
日常生活でリスクばかりを気にしてそれを回避することを主目的に活動している。特に仕事上ではそれが求められもするわけで、美徳であるとも思われているが、同時に退屈極まりなく、何のために生きているのかわからなくなることもある。
そんな時にこの冒険心をほんの少しだけ思い出して、チャレンジしてみたら心にパァっと花開く嬉しさや楽しさ、前向きな希望があるかもしれない、そうちょっとだけ思って仕事してみようと思った。ちょっとだけね。

それにしてもヨットが小さい。あんな小さな船でよくもまあ太平洋を横断したものだ。ちょっと高い波で木っ端みじんになりそうな危うさがある。
ビニールや空き缶をぽいぽい海へ捨てていくのはご時世な感じ。今の映画では無理だろうな。
安物の猿股を60着持って行って、一回着たら捨てる、という描写があり、ボクサーブリーフというかトランクスというか、サルマタがあれを指していることを初めて知った。
堀江謙一もお酒があまり飲めなかったようだが、食料としてちゃんと積んであって、水を節約するためと称して飲んだり、孤独に耐えるため敢えて二日酔いになろうとチャンポン飲みして苦しんだりしていた。下戸というかほとんど飲めない者としてわからなくはないが、あんな二日酔いのなり方は嫌だなぁ。
あと、よくわかっていないまま適当に書いているので誤解があったら大変申し訳ないのだが、石原裕次郎はやんちゃで無鉄砲な若者を好演しているものの、美男子ではないような。そういうほっとけないかわいいところが人気だったのだろうか。

シン・仮面ライダー(2023)

庵野秀明監督の劇場版を観てきた。

物語は唐突に始まる。
山中の峠道で、タンデム(二人乗り)のオートバイがトラック2台に猛スピードで終われている。運転しているのは本郷猛、後ろに乗っているのは緑川ルリ子。彼らはショッカーの構成員だったが、それを裏切り逃亡、本郷はバッタオーグへ姿を変えて追手と交戦し、ルリ子を救出、山中の隠れ家へ身を潜ませる。
そこへ現れたルリ子の父・緑川弘は、本郷が自らの開発した昆虫と人間のオーグ面テーションプロジェクトの最高傑作であることを告げるが、ショッカーのクモオーグが現れ殺害され、ルリ子は攫われる。
本郷はこれを追い、「仮面ライダー」を名乗って戦い勝利する。
ルリ子の案内により第二の隠れ家へ訪れた二人の前に、政府・情報機関の男二人が待ち構えていた。彼らとの交渉により庇護を受けることを承知した本郷とルリ子は、ショッカーのオーグたちとの戦いに身を投じることになる・・・

しょっぱなのカーチェイスからド迫力の映像がてんこ盛り。通常の劇場版で観たが、これだったらIMAXか4DXで観てもよかったかも。
また、ライダーに倒されたショッカーの下っ端構成員の方々は、ド派手な血しぶきを飛ばして死亡する。レーティングがPG12なのもうなずける。
特徴的なのは戦いのシーンで、通常東映仮面ライダーの戦闘シーンはスーツアクターの演技+CGが多く、そのテンポはスーツアクター次第なのだが、本作はかなりの割合をCGに振り切ってしまうことで、劇画調でテンポのいい超高速戦闘を実現させている。
早すぎて逆にユーモラスにも見えるのだが、ユーモラスであるがゆえに薄気味悪くもあり、それが演出の真意であるようにも見えた。
1号ライダーの本郷は「変身」をほとんど言わないのだが、2号やほかの方々は割と気軽に「変身」を発声する。個人的には「変身」好きなので、もっといっぱい言ってほしかったなぁ。

ストーリー上、緑川ルリ子が物語を先導していく形となっており、本郷は最初それに従って、のちに自らの意思でショッカーと戦うようになる。この頼りなげな感じを主演の池松壮亮が好演しており、いいキャスティングだなぁと思った。
逆に飄々として何でも気軽に乗り切っていく一文字隼人もよかった。
従来のシリーズでは漠然と悪の秘密結社としてショッカーが描かれていたが(緻密な設定があったのかもしれないが覚えていない)、本作ではきっちりと理由付けがされている。オーグが変身できる理由もそこに紐づけられていて、「ベルトに受ける風の力で風車が回り変身できるのだ」的なテレビシリーズのナレーションに「そんな小さいパワーで何で変身できるのか」と疑問を抱いていた洟垂れ坊主に対する回答がきちんと提示されているのはありがたかった。
まだ上映中なので詳細は省略するが、ハビタットときたか。おっさんからすると90年代に富士通がやっていたオンラインサービスを思い浮かべてしまうが、やはりアレからとったのだろうか。
あと、ロケ地が聖地巡礼の様相を呈していてワクワクした。と言っても個人的に理解できるのは平成ライダーの有名なロケ地だけで、おそらくそれも昭和ライダーのロケ地をオマージュ的に使用しているケースもあるかもしれず、孫オマージュに相当するところもあるのかもしれないが、それでも「ここは剣(ブレイド)で観た!」みたいな個所がいくつもあって嬉しかった。

興行収入的には苦戦しているという話も聞くが、画面が全体的に暗くて地味なので、そんなに興味がない方々からすると肩透かし感があるかもしれない。まあでも、よくできていたと思う。

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ペリフェラル ~接続された未来~(2022)

AMAZON ORIGINALの連続ドラマ。若い頃に読んでいたサイバーパンクのSF作家、ウイリアム・ギブスンが2014年と比較的最近に書いた短編が原作と聞いて興味が引かれ、観てみた。第一シーズンと思われる8話までを観終わったので書く。ネタバレあり。

今よりももう少し近未来、ネット接続や戦争に使われる技術など、様々なことが今よりも進歩している時代で、アパラチア山脈のふもとで冴えない人生を送っている若い女性フリンは、そのゲームの腕を買われて、兄・バートンからとある発売間瀬の製品のテストプレイを依頼される。それは完全なVRで行われるゲームで、まるで自分の体が別の現実の中に入ってしまったかのようなリアリティだった。
その世界でゲームをプレイしていると思っていたフリンは、ストーリー上トラブルに巻き込まれるも、無事に現実世界へ戻ってこれたことで、それが単なるゲームであると錯覚していた。しかし、ゲームの中の出来事はある意味で現実であり、フリンたちの世界に影響を及ぼし始めていく。
まず、謎の軍隊が闇に紛れてフリンの家を強襲する。しかしバートンとその友人たちは元海兵隊員で、手首に仲間と交信できるハプティック・ネットワークのインプラントを埋め込まれており、その後遺症で苦しみながらもバートンのバスキャビンに集い酒盛りをするのが日課になっており、すぐに戦闘態勢になり、隠してあった銃器をフル活用して返り討ちに成功する。
ゲーム内で情報収集するうちに、ゲームの世界は70年後の現実世界であり、量子トンネルで過去と未来をつなぎ、フリンがVRと思っていたのはペリフェラルと呼ばれるアンドロイドに過去の意識を投影している状態であることがわかる。未来世界ではとある理由で人口が激減しており、過去に干渉することでそれを回避しようともくろんでいたが、そのためにフリンたちの世界は滅ぼされようとしてた。
それに抗おうと、フリンとバートン、そしてバートンの戦友で、戦争で左手と両足を失ったコナーは、未来世界の協力者にペリフェラルを用意させて乗り込んでいく・・・

非常に刺激的な世界観とガジェットの数々で、さすがAMAZONが金をかけているだけあって精緻且つ大胆な映像に圧倒され、SFってこれじゃないとなぁと思わされる。
ストーリーもめまぐるしく進行し、映像をたっぷり見せたい場面以外はテンポよく進むので飽きさせない。
ペリフェラルの描写は特に面白いと思った。顔の表情をCG的に無機質に見せるのと同時に、役者が素体的に意識のないペリフェラルを無表情で演じているのも興味深かった。
バートンたちがインプラントされているデバイスもありそうでなかなかない。というか、この人たち退役しているはずなのに、なんで今でもその機能が使えているのだろうか。退役の時に切除されたり機能停止されたりするよね? 犯罪に使われたらどうするんだろう? 実際この話の中ではどこの誰ともつかない人をバンバン打ち殺してしまっているし・・・
登場人物たちの性格がどうも気が短く浅慮で、突発的・衝動的に行動する人ばかり。特に主人公のフリンと兄バートンは何かとぷんすか怒りまくっていて、もっと理性的に話し合えば様々なことが効率的かつ効果的に進むのに、お互いに衝動に任せて行動して阿呆な目に会う、の繰り返しなのがちょっと鼻につく。
「なんでお兄ちゃんはいつもそうなの!?」「そんなことはない俺はいつも話をよく聞いている」「嘘!お兄ちゃんはいつもそう!」「ちょっと待ってくれフリン俺の話を聞いてくれ」「もういい!私は〇〇する!」「おい待てフリン!クソッ」的な会話(実際にはこんな会話はないがイメージ的に)を何十回と繰り返しているイメージ。
他の登場人物も、突発的に人を殺しがちで、熟慮している風に見えないのが行き当たりばったりに見えてしまうことが何回かあった。
全員理性的な登場人物だと最短距離で結論にたどり着いてしまって話が膨らまずつまらなくなるのかもしれないので、テンポの良いストーリー展開とトレードオフなのかもしれない。その点では成功しているのかな。
当然のことながら続編がある前提で話は終わっており、未来から過去への一方的な介入に対してフリンたちが敢然と立ち向かおうとするその瞬間でシーズン1が終わったため、次シーズンでより一層暴れまわってくれることを期待したい。