観たり読んだり備忘録

片端から忘れてしまう観たものや読んだものを、記憶にとどめておくためにちょいちょいと走り書きとして残してます。それ以外もちょこちょこと。

バッファロー マウス 無線 ワイヤレス 静音 5ボタン 【戻る/進むボタン搭載】dpi切替 BlueLED ブラック BSMBW325BK

元々はQtuoというよく聞いたことのない中国メーカの、千円を切る安い無線マウスを使っていた。
これが手にジャストフィットして使い勝手が非常によく、我が家では自分用、自分仕事用、妻用の3つを使っていたのだが、そのうちの仕事用でスクロールボタンに不具合が出るようになってしまった。
AMAZONのレビューではこの報告がいっぱい出てくるので、高確率で当たる不具合らしい。
一応メーカ側では18か月の保証を謳っているらしいが、購入した時のパッケージや書類はすべて捨ててしまったし、AMAZONの購入履歴では購入日から1か月しか返品できない設定になっており、メーカサイトは存在せず、facebookTwitterはもう5年くらい放置された状態。さらにはAMAZON上の本製品ページも在庫なしの状態が長らく続いており、メーカ対応がされていないようなので、交換も新規購入もあきらめた。

その代わりとして、メジャーメーカで似たような安いマウスを探したところ、こちらのマウスに行き当たったので早速購入。価格も千円ちょっととお買い得。
実際に触ってみたところ、手に当たる感触がQtuoでなじみすぎてしまっているからだと思うが、だいぶ違和感がある。
僕は左利きなので普通の人と逆で使うからということもあると思うが、Qtuoは左手でホールドするのに本当にジャストな形状をしているのと、薬指(右利きだと親指)を置く部分にゴムパッドが貼られていて心地よく、さらにマット加工なのでクリックする人差し指と中指もしっくりくるのだが、このマウスはほぼツルツルで右手親指部分だけマット加工されている。
一番ホールドしたい左手親指部分にちょうどツルツルかつ角の鋭角な部分が当たるので、だいぶ使いづらい。
ただ、最近のマウスは多いらしいが本品もクリック音が極力抑えられているのはポイントが高い。
テレワークで会議しながらこっそり内職していると、このカチカチ音でばれることが多いのだが、このマウスならバレずにこっそり内職できるかもしれない。今度試してみよう(あくまでも自己責任)。
また、マウスの中では結構大ぶりなつくりなのもありがたい。特に左右対称の安いマウスは小さいつくりのものが多く、そういうのを使っていると指が凝るので、大きいつくりのマウスが欲しかったのだが、それは果たされた感じ。
たぶんバッファローのマウスでもちゃんと実機で試して、それなりなお金を出せばしっくりくるものはあるのだろう。たまたま今回は相性が良くなかったということか。
まあそれでも、せっかく買ったのでしばらく使ってみよう。使ったら慣れるということもあるかもしれないし。

 

 

エレコム 電源タップ 雷ガード 個別スイッチ ほこりシャッター付 6個口 2.5m ホワイト T-K6A-2625WH

最初は少なかったコンセントやACアダプターが、時間が経過するごとにだんだん増えてきて、電源タップをそのたびに増やしてタコ足配線になることがよくある。うちでは複数個所でよく見かける光景である。
ただ、それらはそのままにしておくとぐちゃぐちゃになって見た目が悪くなるし、なにより危険でもあるので、まずうちの中で一番激しいところを整理しようと、差込口が多いタイプの電源タップを物色することにした。
マスト条件としてよく見知っているメーカのものを選択。
うちの中では普通にダイソーの数百円電源タップを使っているのだが、正直これはあまり信用できないので早めに取り替えたいし、もう20年近く使い続けている年代物のタップもあり、これも信用のおけるタップに変えたい。
タワー型もあったのだが、タワーにするとそこから電源ケーブルが下に向かって垂れさがる形になり、より空間容積を広く占有してしまうイメージだったので却下。
また、あまり差込口が多すぎても一か所に負荷がかかりそうだったのでやめて、このエレコム製の6個口の電源タップを選択。
白と黒があり、黒の方がカッコよさげに見えたのだが、黒はホコリが目立ちそうなので白にした。
また、一番安いのではなく、雷ガード・ホコリシャッター付きの本品にしてみた。どれだけ効力があるかは未知数だが、まあおまじない料としては高くない。ホコリシャッターは今どきの気の利いた電源タップにはたいていついているようだが、ホコリが導電してショートする事故や火災もたまに発生するようなので必要である。

実際に使ってみると、思った以上に取り回しがよい。ソケット部分が差し込み口とコードを垂直にできるようになっているので壁に沿わせやすい。各差込口が横向きになっているのもポイントが高い。一昔前の電源タップは縦向きなのが多かったのだが、ACアダプタは大抵縦長に作られているので、縦向きに複数差込口があっても干渉してしまうためである。横だと干渉しない。
また、それぞれの差込口のオンオフが行えるスイッチがついているのも便利で、ソケットを抜かなくてもオフにできるのがよい。手持ちの機器の中で、WIFIルータなどは電源ボタンがなく、再起動はソケット抜き差しで行っていたが、これでスイッチで行える。
また、そのスイッチが差込口に対して下ナナメ方向に切られているので、大きなACアダプタを付けても干渉しないのが小技が効いていて素晴らしい。ほんとよくできてるなぁ。
買ってから2日で惚れ込み、別の場所用にもう一つポチった。いい製品に巡り合ってありがたいなぁ。

 

戦場にかける橋(1957)

年末年始のテレ東でやっていた英米合作の名画。ほぼ前情報なく観た。

第二次世界大戦中、日本と同盟国だったタイと、イギリスの植民地でのちに日本が占領したビルマの国境近くにあった大日本帝国軍捕虜収容所。そこには米英兵士の捕虜たちが収容されていた。
所長の斎藤大佐は、軍から指示されたクワイ川への橋建設を最優先に行うため、捕虜たちは兵卒・将校の区別なく建設労務に従事させると発表。捕虜たちのリーダーであるニコルソン大佐はこれをジュネーブ条約に反しているとして抗議したが、「オーブン」と呼ばれる劣悪な環境の営倉へ入れられてしまう。
何日か経過し、翻意を促されるニコルソンだが、これを断固として拒否。斎藤大佐の様々な甘言にも耳を貸さず、捕虜軍医クリプトンには「生き方の問題であり曲げられない」と語った。
日本人主導で進められた橋建設はうまくいかず、捕虜たちの士気も全く上がらない状態で、斎藤はとうとうニコルソンの言い分を聞くことにした。ニコルソンはイギリス軍兵士にやりがいを与え、また英国軍の力を知らしめるというモチベーションで橋建設に自分たちの力を注ぐことを決意する。
一方、当初収容所にいて、脱走中に打たれて死亡したと思われた米国軍兵士・シアーズは、途中生水を飲んで食中毒になって死にかけたところを現地の村で救われ、その後船で海に流されたところを英国軍に発見されて一命をとりとめた。
コロンボの軍病院で悠々自適の生活を送っていたが、英国軍の316部隊への参加を要請される。最初はやっと逃げ出したところへまた戻るなどもってのほかと固辞したが、彼が実は中佐の身分を偽っていた二等兵卒であることがバレ、身分詐称の英雄に帰還されても困るアメリカ本国からも英国軍への移籍が了承されており、少佐待遇で迎えるという条件を飲まざるを得ず、参加を余儀なくされる。316部隊の作戦は、まさにニコルソンたちが心血を注いで建設している橋の爆破だった。
それぞれ立場の違う英国軍の兵士たちが、一方は橋の完成、一方は橋の爆破を行うため、それぞれが命を懸けて任務を遂行する・・・

アカデミー賞7部門受賞という輝かしい栄誉を受けた映画であることは勉強不足で知らなかったが、約3時間の超大作だし、何かあるだろうと思っていたところ、最初の2時間はかなりダレた。とにかく日本軍収容所の斎藤大佐がクズ過ぎて、まあ当時の日本軍難点こんな感じのわけわからない卑怯者扱いの印象なんだろうなぁと、がっかり納得するしかない感じ。
また、映画の視点では正義側である英国軍大佐のニコルソンは正直で公正ながら、意固地で頭が固く頑固である点が執拗に描かれる。
脱出行を成功させた米軍兵士のシアーズもお調子者ながら熱血漢である旨が描かれるなど、それぞれの人間臭い、決して万能ではないが感情にあふれた人物である点がやたらと描かれる。
それが最後の爆破作戦に絡んだところで一気に収束していってかたずをのんで見守ることになるあたりがこの映画の一番の醍醐味で、それまでのダレた時間を取り戻すかのような手に汗握る時間帯だった。
そして最後のアレ。まあここでネタバレはしないでおくが、「戦争の悲惨さを知らしめる映画」ということなのでこうなるのだろう。ただ、3時間も見続けたのになぁ。少しのカタルシスは欲しかったところだが、そういうのが全くないところもまた評価されたポイントなのだろう。

そして、最後になるまで「ボギー大佐」なる人物は出てこなくて、エンドロールで「ボギーって誰だよ!」とテレビにツッコんでしまった。wikiを観たら、劇中で英国軍捕虜が口笛合奏しているこの曲は、映画よりもずっと前に作曲され、作曲家の「ゴルフでボギーばかり叩いていた友人のあだ名」が「カーネル・ボギー」だったからだとか(要出典扱いなので定かではない)。この映画と関係ないんか~い!
サル・ゴリラ・チンパンジ~。

 

ハンコック(2008)

年末年始にテレビでやっていたのを観た。

不死身の体に怪力、空も飛べるスーパーヒーロー的な存在であるハンコック。だが彼はその能力とは裏腹に、過去の記憶がなく、自堕落に酒におぼれ、気ままに人助けをするもその何十倍も被害を拡大させてしまうお騒がせ厄介者である。
そんな中で出会ったのが広告会社のレイ。彼はたまたまハンコックに危機を助けられ、お礼をするために自分の内へ連れて帰り、煙たがる妻をしり目にハンコックを歓待する。
家族のやさしさに触れたハンコックは少しずつ変わっていくが・・・

この映画は中盤に中オチとでもいうべき壮大なオチが仕掛けられており、それがすべてなので、それが発動してからエンディングまではほとんど付けた市にしかなっていないという大変な挑戦作。
まあ、挑戦しただけで見事にスベっているのだが・・・
でもその意欲は評価したい。

また、終盤でハンコックはある理由からパワーを失っていくのだが、そのあたりの描写があいまいにぼかされているので、今パワーのない常人状態なのか、でもやっぱりちょっとパワーが残っている超人なのかがわかりづらく、一層終盤の付けたし感をましてしまっている。
まあでも、こういう話にありがちなチープなバッドエンドではなく、堂々たるハッピーエンドで終わったところはよかった。
しかしなあ。中オチされちゃうとほとんど書けないんだよなぁ・・・

ハンコック (字幕版)

ハンコック (字幕版)

  • ウィル・スミス
Amazon

 

あっという間に完成! 筆まめ年賀状 2022年版

だいぶ枚数は減ったし、ここ数年でつながった人とはオンラインでのやり取りがメインで出していないが、それでもまだ昔懇意にしていた方々には年賀状を出している。
PCで年賀状を作るようになってからしばらくの間は「筆休め」というソースネクストの中でも激安なソフトを使っていたが、後発の侵攻によってアップデートされなくなり、使いづらくなった。

その次に使ったのが、日本郵便が出した「はがきデザインキット」。
こいつの使い勝手が本当に悪くて難儀したものだが、無料という大きな要因に引きづられる形で何年か使用。
しかし今年(2021年→2022年)はインストール版が終了してしまい、利用不可に。
WEB版とアプリ版だけが残り、しかもWEB版は大幅に機能が縮小するわ、住所録はアップロードしなきゃならなくてセキュリティ面が不安だわで、とても使えるものではない。
ということで安いソフトを探したところ、こちらのようなワンコインアプリセット本がいっぱい出ていることに気がついた。
これらは元々数千円するはがき印刷ソフトなのだが、基本的な機能だけに絞ったベーシック版にして、図柄などもごく一部に限ったものだけにする代わりに、毎年お安く提供されているありがたい存在である。
もっと早くこれに気がついていればなぁ・・・「はがきデザインキット」であんなに苦しまなくて済んだのに。
他にも「筆王」や「筆ぐるめ」など、ソフトごとに出ていて、のっかっているデザイン集が違う版も複数出ているのだが、一番メジャーなソフトで、Amazonのベストセラー1位になっていた本品をチョイス。
実際使ってみると、「はがきデザインキット」で使っていたCSV形式の住所録を何の加工もせずに一発で読み込み、試しに1枚だけ行った宛名印刷で寸分の狂いもなく郵便番号を印字するという素晴らしさ。すごいなこれ。
うちは写真をメインにして、あとは簡単な素材で彩る程度なので、豊富なイラストやデザイン、凝ったフォントなどは必要ないし、複雑なことも一切しない。こんな感じで十分。
レイアウトは簡単だし、写真のインサートなども楽で直感的に操作できる。
印刷イメージも実物とほぼ変わらないので調整も少なくて済む。
AMAZONのレビューを見ると「毎年買ってます!」というコメントが多く、ソフトだけだったら数年に1度で十分だろうと思っていたのだが、これだけ優秀なソフトの基本機能に必要最小限ながら使い勝手の良いデザインやフォントを考えると、毎年500円程度はお布施を出さないと申し訳ないくらいの気持ちになってくる。
週末の数時間であっという間に今回の年賀状アウトプットが完成。感謝しかない。

 

 

ホドロフスキーのDUNE(2013)

以前ここで取り上げた「デューン砂の惑星1984)」で触れた通り、ちょっと前から観てみたいコンテンツだった。劇場版「DUNE/デューン 砂の惑星(2021)」に関連してということだろうが、アマプラで見られるようになっていたので早速視聴。

アレハンドロ・ホドロフスキーはチリ出身の映画監督。「エル・トポ」や「ホーリー・マウンテン」がカルト映画として人気を博した。
1975年から、SF小説の対策、フランク・ハーバート砂の惑星」の映画化に着手する。
デザインにH・R・ギーガー、音楽にピンクフロイドやマグマ、ハルコンネン男爵役をオーソン・ウェルズ、皇帝役にサルバドール・ダリなど、目を剥くような壮大且つ驚愕のキャスティングを行い、全カットの絵コンテも描き切ったが、配給元が決まらず、映画化は断念となった。
本作はその立志から挫折までの過程をホドロフスキー本人へのインタビューを中心に、関係者のコメントや解説などを交えてストーリー仕立てで見せるドキュメンタリーである。

結局のところは映画化を挫折したという話なのだが、デイヴィッド・リンチの洗練された美しい映画を元にして比較してしまうので、どうしても珍妙というか奇抜というか、奇をてらったものであるように見えてしまう。
作中で披露されるデザインを見ると、衣装や装飾がなんともカラフルでサイケデリック。サーカスのピエロのような印象で、あまり威厳が感じられない。
宇宙空間の描き方などは、ひょっとしたらリンチよりかっこいいかもしれない。こだわり抜いたカットの連続で、相当お金がかかりそうだが、映像化できたらすごい映画になっていたことだろう。

そして、映画というのは本当にお金も人手も片っ端から食ってしまう媒体なのだなぁと改めて感じさせられる。
いつもホドロフスキーたちは人材と資金の枯渇に悩まされており、最終的には資金繰りの目途が立たずに断念することになる。
また、この当時の映画業界は映画監督の発言権が非常に低く、映画会社がいいよう采配していたことが見て取れる。
まあどの業界でもお金を握っているところが強いのだろうけど、リンチも結局は映画会社に編集をズタボロにされて、映画としては失敗と自ら位置付けるほどの作品になってしまったわけである。
ホドロフスキーはリンチの映画を観て、失敗作でホッとしたと語っている。もちろんリンチの才能は疑いようもなく、制作会社のひどい編集のせいだというフォローはしっかりしていた。
どちらの作品も本来であれば10時間以上を費やすべき内容なのだが、リンチは切り刻まれ、ホドロフスキーは実現しなかった。やっぱりあの世界観を描くには、1本の映画では少なすぎるのだろう。今年封切られた最新作も前編で終わっていたし。

仮にもし、本作が制作に成功して封切られ、その代わりにリンチの映画ができない世界線になるとしたら、それはそれでやっぱり困るな。あくまでもリンチとの競作前提で、観てみたかったなぁ。

 

デューン 砂の惑星〔新訳版〕(原作1965年 新訳版2016年)

旧訳は中学生の頃に読んだが、新訳は読んでいなかった。今回の映画新作封切りに伴い、装丁が一新されKindleでお目見えしたので買って読んだ。
時系列としてはデイビッド・リンチの映画→旧訳→長尺版→ドラマ版→新作映画→本作ということになる。

あらすじはもう旧・新映画のくだりで書いたので省略。

改めて小説を読むと、当時感じていた用語の難解さや荘厳な雰囲気、壮大なスケールや悠久の歴史感覚などが思い出されて懐かしい。
こういうのがものすごくかっこいいと思っており、厨二心をいたくくすぐられたものだ。
この作品が好きな大人たちが、大なり小なり心にいる厨二を刺激されているのは間違いなく、それが全世界に広く多く分布・存在していることを考えると心強く感じる。
作品を好きになるというのはこういうことなんだな、というのを改めて思い知らせてくれるというか。
映画制作者はこの重厚壮大なストーリーを少しでも可視化したいと思って映像化するわけだが、原作の壮大さがすごすぎて、どうしても人の手で100%表すのは不可能だなぁと思ってしまう。

巻末の解説で水鏡子氏がSF小説のオールタイムベストのエピソードを語っておられるが、いつの年代でも断トツ1位になるのがこのシリーズということで、御三家(アシモフ、クラーク、ハインライン)でもかなわないというのはすごすぎる。

SF小説を読む人はみなそれぞれ心を熱くしてくれる何かを求めて作品を読み漁るわけだが、このシリーズにはその皆が求めている熱いなにかが凝縮しているということなのだろう。

ただ、改めて思ったがとにかく難解。各エピソードの冒頭にイルーラン妃が語るムアッディブの言葉がとにかくわかりづらく、これにとらわれると本編も難しく感じてしまうので、これは雰囲気付けなのだと割り切って、サラッと読み流す必要がある。
ただ、これがストーリー全体を「すでに経過した歴史の一部」であるかのように見せるために重要な位置にあり、完全にスルーしてしまうと雰囲気が損なわれるので、匙加減が難しいところ。
あと、登場人物たちがびっくりするほど仲が悪い。
悪い、と言うと語弊があるかな。もうちょっと仲良く「一緒にやっていこうぜ!」という感じだったら読みやすいのだが、いつも誰かが誰かの一言で傷ついたりこだわっていたり、ムッとしたり腹を立てたりすることが多く、登場人物がみな生真面目でウジウジしているのが読みづらい原因の一つ。よくこんな根暗な人たちばかりでこんな大事業を成し遂げたなぁ。
まあでも翻訳物あるあるではある。
なんとなく欧米の方がこういう時にムードメーカー的な人がいるイメージなのだが、どうしてだろう?SFを書くタイプの人には陽キャが少ないということ?(偏見です)。

旧訳から新訳になった際に変更となった用語の読み方については、訳者も思い悩んだようで巻末に解説がついている。まあそうだよなぁ。みんなこの言葉のカッコよさにシビレたわけだから、それを変えちゃうと「俺のデューンじゃない!」って当時は言われたろうな。まあでも仕方ないよなぁ。

ぜひぜひぜひ、シリーズ全部を新訳版として出してほしい!
シリーズ最後の「デューン砂丘の大聖堂」だけ、当時から手に入らなくて買えなかったのだが、久々にググってみたら古本に万単位のプレミアがついていてビビった。