観たり読んだり備忘録

片端から忘れてしまう観たものや読んだものを、記憶にとどめておくためにちょいちょいと走り書きとして残してます。それ以外もちょこちょこと。

ぐらんぶる(2020)

コミック原作で、アニメ化もされた。本作は実写映画。アニメは見てコミックは読んでいないが、なんとなく観てみた。

離島にある大学へ進学し、親戚のうちに居候することになった伊織。彼はバラ色の大学生活を夢見てこの島へやってきたが、なぜか何の記憶もないままキャンパスの真っただ中で全裸の状態で目覚める。伊織はいつのまにかダイビングサークルに所属することになっており、なんということはなくお世話になるおじさんの経営しているダイビングショップを起点としたサークルに入っただけなのだが、そこには美人になった幼馴染の従妹姉妹や死ぬまで飲ませてくるムキムキの先輩たち、ダイナマイトボディでバイセクシャルなおねーさんなど、個性の強い人たちに囲まれた、想像もしていなかった刺激的な大学生活を送ることになった・・・

あまり理屈で見る映画ではない。シチュエーションコメディの中に青春ドラマもちりばめられているよくある話なのだが、とにかく主人公たちが全裸で何かしているシーンが盛りだくさんで、おおよそ半分くらいは全裸なのではと思わせるくらい。
全くその気はないおっさんが見ても、この俳優たちのスレンダーでありながら筋肉のついた体は美しいなぁ、とほれぼれしてしまう。
女性にはない裸の美しさが若い男性にはあるなぁ。
演出は極めてしつこく、繰り返し何度も何度も同じような盛り上げ方をするので最初から食傷する人も多いと思うが、とにかく俳優たちが生き生きしていてみな美形。
主演の竜星涼は「獣電戦隊キョウリュウジャー」でキョウリュウレッド、耕平役の犬飼貴丈は仮面ライダービルドだったし、先輩の中には仮面ライダーOOO(オーズ)で仮面ライダーバースをやっていた岩永洋昭がいる。
女性陣も全員極めつけの美人ばかりだし、これは愛でる映画だなぁと改めて思った。

そして、俳優陣が体当たりで演じているダイビングのシーンがとにかくすごい。これまでこんなドキドキしながらダイビングをしている映像を見たのは初めて。
演じつつも一所懸命ダイビングをやりとげようとしている純粋な気持ちがグッと伝わってきて、おっさんはそれだけでちょっと泣きそうになった。
ギャグはちょっと冴えないなぁと思うが、そんな100点を目指す映画ではなく、パッションを味わうべきなのでそれで良し。

 

 

シンドバッド 7回目の航海(1958)

子供の頃、土曜の昼下がりのテレ東でやっていたのを何度も観た。本当に面白かった・・・
いつの間にかPrime Videoにあったのでありがたく拝見した。

冒険の途中でとある島にたどり着いたシンドバッド船長とその一行。そこで知り合った魔術師ソクラは島に生息している狂暴な一つ目の巨人サイクロプスから魔法のランプを奪おうとしていたが返り討ちにあい、皆這う這うの体で逃げ帰る。
シンドバッドと一緒に都へたどり着いたソクラは謎の島へ連れ帰ってくれとシンドバッドに申し入れるが、シンドバッドは危険な島へ行くことはできないと拒否。するとソクラはシンドバッドのフィアンセであるパリサ姫を小さな姿に変えてしまう。
姫を元に戻すには、あの島に住む巨大鳥・ロク鳥の卵の殻が必要というソクラを謎の島へ連れていくシンドバッド。しかし急募した乗組員は札付きのワルばかりで反乱を企んだり、邪悪なソクラは隙あらばランプを奪おうとするのだった・・・

今見ても素晴らしい特撮で、可動骨格を仕込んだ人形を一コマずつ動かすダイナメーションという技術とのこと。巨人サイクロプスロック鳥にドラゴン、そして最後の骸骨戦士との剣戟など、1958年の当時どうやってこれを撮影したのか、驚嘆するしかない。
最近になるまでこの映画や「タイタンの戦い」を製作したのが特撮の名匠レイ・ハリーハウゼンであったとは知らなかったのだが、これだけクオリティの高い映画を50年代に撮っていたらそりゃレジェンドだよなぁ。
なんで今見ても新鮮で楽しくて感心してしまうのか、不思議で仕方がない。ストーリーも演技も特撮も一切の妥協がないというか、やれることを120%やりつくしている感がよい。そして人形たちの躍動感がとにかくすごい。ただうごいているだけではなく、魂も一緒に練り込まれていることに感動するのであろう。

 

 

DUNE/デューン 砂の惑星(2021)

フランク・ハーバート原作の一大SF叙事詩が原作で、以前ここで取り上げたデイヴィッド・リンチ監督の映画があるが、そのリメイクというよりは原作の再映像化、ということになる。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督は、以前紹介した「ブレードランナー2049」の監督でもある。

西暦で言うところの1万年を過ぎた遠い未来、銀河帝国皇帝から惑星アラキスの統治を命じられたレト・アトレイデス公爵は、最大の用心・準備・防御をしながらアラキスへの移住を行う。
愛妾ジェシカの息子でありレトの跡取りであるポールは、ジェシカのベネ・ゲセリットとしての訓練を積んでいく中で、一度も行ったことのないアラキスの予知夢を頻繁に見るようになっていた。
アラキスから算出されるメランジと呼ばれる香料(スパイス)は、宇宙船を飛ばす航宙士(ナヴィゲイター)がワープ航法を行う際や、超能力を駆使する女性集団ベネ・ゲセリットが力を発揮する時に不可欠のものであり、貴族たちにとっては不老長寿の妙薬であった。
アラキスの利権をめぐり、元領主であったハルコンネン男爵、皇帝、スペースギルドやベネ・ゲセリットたちの思惑が交錯する。
そして身内の裏切りとハルコンネンの襲撃によって崩壊するアトレイデス家。辛くも逃げ延びたジェシカとポールは・・・

いろんなところに行き届いた配慮が垣間見える。原作にもリスペクトしつつ、リンチの圧倒的な映像美にも敬意を払って使えるところは使い、よりよくできるところは可能な限りブラッシュアップしようとした努力がそこかしこに見えており、この監督は原作もリンチ映画も大好きだったんだなぁと感じられて好印象。
また、最新の特撮やCGを駆使したスケールの大きさはさすが。大砂漠惑星の中で埋もれそうになりながらも、銀河帝国の威光とプライドを込めた巨大な建造物のスケールの大きさは迫力がある。
ただドンパチやって派手に騒ぎ散らかすハリウッド映画とは一線を画し、SF史に燦然と輝く惑星アラキスとアトレイデ家の人々の歴史が厳かにスタートしたことが改めて感じられた。

ただ、この映画前編だけなのね・・・全然前情報なしに映画館に行ってしまったので、てっきり全部やるのかと思ったら、オープニングのタイトルで「PART ONE」のちっちゃい文字が出てきてすべてを悟った。まあそうだよなぁ。2時間半ではとてもおさまるスケールではない。というかリンチはそれで制作会社に切り刻まれて2時間ちょっとのダイジェスト版にされてしまったのだし。
また、原作を読み込んでいないと何が何だかわからない、というのはリンチ作と変わらない。原作のディテールの細かさやスケールの壮大さが大きすぎるのがそもそもの原因なのだが、それらを全部表そうとすると、おそらく10時間を超える映画になってしまう。涙を飲んでぶった切ったエピソードや描写はいっぱいあるのであろうことが想像できて、それはそれで痛ましいほどではあるのだが、観る人にとっては関係のない話なので、デメリットになってしまうポイントである。
そして、迫力のある映像ではあるのだが、あまりにもリアリティを追求しすぎたからであろうか、ほんとにありそうな砂漠惑星のワンカットにしか見えず、リンチの映画のような「美」が迫ってくるような圧倒された感じはあまり感じなかった。そのため、序盤の説明じみたストーリー展開の内はそこそこ退屈な時間が過ぎていく。ちょっともったいない。
あと、これはおっさんの僻みでしかないので主観的意見でしかないのだが、主人公のティモシー・シャラメの線が細すぎて、幼くも頼りがいがあり徐々に覚醒していく主人公・ポールにどうしてもそぐわない。
ネット上の感想を見てみると、このシャラメが「あまりにも美しすぎる!」みたいな賞賛が多かったのだが、「昔はよかったおじさん」からすると、カイル・マクラクランの割れたアゴくらいのマッチョさが欲しかったなぁと思ってしまう。いかんなぁおっさんは・・・
音楽もちょっと微妙だった。おそらくはフレメンから、アラビア的な異国をイメージしたのだと思うが、女性が甲高い奇声を発し続けていつBGMが延々と続いているようにしか聞こえず、正直耳障りだった。まあ、たぶん僕の方がありがたみを理解できていないのだろうけど・・・

デューン 砂の惑星」はホドロフスキーが映像化しようとして失敗し、リンチが映画化し、そのあとアメリカのケーブルテレビがドラマ化して本「砂の惑星」と続編「砂丘の子供たち」まで映像化している(その昔TSUTAYAでレンタルして観た)。パラマウントも映像化しようとして失敗しているので、本映画で5回目の映像化ということになる。
原作ファンとしては、なんとか「砂の惑星」だけではなく、「砂丘の子供たち」「砂漠の神皇帝」へと映像化をつなげてほしいところである。

 

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コールマン(Coleman) テント カーサイドテント 3025

元々はここでも取り上げたコールマンのツールームテントを使っている。
あれはあれでよいものなのだが、一昔前のテントということもあり、立ち上げるのにとにかく手間がかかる。
その最大の手間はポールの多さで、リビングの天井で6本、それを立ち上げる足に4本、寝室に2本で、最低でも12本のポールを組み立てて通してひっかけて、を行わなければならない。フラップを上げようとするとさらに2本である。これを全部やってからペグダウンなどするともうヘトヘトである。
ほぼほぼ土日で行くので、初日に苦労して設営しても翌日には撤収。労働力がもったいない。まあそんなことを言っていたらキャンプなどできないのだが・・・
現在我が家の自家用車はFREED+で、もともとこの車は小ぶりながら3列シートの7人乗りだったところを、最後尾席を取っ払い、フルフラットにできるところが「+」というわけだ。これを車中泊に使わない手はない。
ということで、寝るのは車の中、リビングだけ外に設営したい。

そこで購入したのがこちらのカーサイドテント。
タープだけ張ればいいだろう、と最初は思ったのだが、メインで使っているツールームテントの最大の強みは、リビングの壁面をすべて閉じることができるという点で、これがあると強風下でも大雨でも何の不自由もなく過ごせる。今まで何度も助かってきた。
そのため、カーサイドでも同様のことができるという条件で探したところ、ロゴス、小川テント、そしてコールマンで手ごろな値段のものがみつかり、3つの中で一番居住区画の容積が大きそう、という理由でコールマンを選択した。

で、実際に2回ほど使ってみた。
天井は2本のポールを交差して張り、2本のサイドポールで二隅を立ち上げる。
その反対側2か所を車に固定することで部屋を作る。
車に隣接している側には壁はないので、直接車に出入りできるようになっている。

当たり前だが、ツールームテントより格段に設営が楽。
といってもおそらく小川テントやロゴスに比べるとポールの数がやはり多くて、それらの方がもっと設営は楽かもしれない。こちらのテントは天井用ポールと立ち上げ用ポールが別々なので、それぞれ別個につなげなければならないという手間がある。
まあでも、12本ポールで過ごしてきた身にとってはなんということもない。
そして、居住空間が面積も容積もたっぷりとれるので、非常に過ごしやすい。
というかほぼいつものツールームテントのリビング部分と同じ大きさなので、おなじみの感覚がそのまま使えるのが大きい。
ロゴスや小川テントの方は、上の方が車寄りに傾斜しており、天井の部分が斜めになっている印象だが、こちらは天井がしっかりあるので実質的な活動領域が多く取れているように思う。
車で寝るのが問題なければこれでまったくもってOK。よくできてるなぁ。

ただ、問題がないわけでもない。
車との接合は付属品だと吸盤になっていて、それを車の天井に張り付けるのだが、車にもよると思うがうちのFREED+は天井が微妙に湾曲しており、絶望的なまでに吸盤が張り付かなかった。
初回はそれで強風にあおられ、あっけなくはがれてはぺしゃんこになる、というのを繰り返したので、2回目は強力磁石(下記)をあらかじめ買っておいた。
そのまま使うと車に傷がつきそうだったので、いらないハンカチを切り抜いて、付属の両面テープで接合面に貼ったところ、ちょうどいい感じに。
本テント2回目の使用時に実際に使ってみたが、風が吹いてもびくともせず、思った通りの出来栄えでほっとした。
また、結局は地面と触れているのは2本のサイドポールだけなので、風に吹かれるとだいぶたわむ。そのため、横から出ているロープでの補強がマスト。この分手間がかかる。
また、下部のスカート部分は何も固定されていないので、見栄えよくしたい場合は8か所ほどペグダウンしないとピラピラする。結局結構手間がかかっているような気も・・・
まあでも、キャンプとはそういうものだ。手間も楽しみのうちということで。

 

 

 

 

シドニアの騎士 あいつむぐほし(2021)

いつの間にかアマプラに来ていたので視聴。
もともとはテレビアニメから見始め、そのあと完結したコミックも読んだ。本作はこれらのストーリーを元に前・後編で制作された劇場版の後編に当たる。
新しいエピソードやカットはあるものの、基本的なストーリーはコミックやアニメの通りなので、前編は見なかったのだが、後編はアニメで届かなかったコミックのラストにまでストーリーが進んでいるので興味深く観た。

未知の生命体ガウナに地球を滅ぼされた人類は、人類という種をつなぐべく、巨大宇宙船で植民可能な星を探して旅だって行った。シドニアはそのうちの一つであり、50万人規模の乗員を可能とし、砲身含め30km近い大きさの世代宇宙船で、1000年にもわたってガウナの追っ手から逃げつつ新天地を探す旅をしている。
シドニアでは人類をより少ないエネルギーで生存させるための遺伝子改造を積極的に行っており、人々は光合成によってエネルギーを得ることができる。
しかし、主人公:谷風 長道(たにかぜ ながて)は船の奥底にある、今は使われていない古い居住区で祖父と二人きりでひっそり暮らしており、光合成のできない旧来の人間として育った。
祖父がなくなり、遺言に従って表の世界に出た長道は、最初はシドニアの住人達から野蛮人的な扱いをうけるが、祖父に仕込まれた、ガウナに対抗するロボット型兵器・衛人(もりと)の操縦の際を見込まれてパイロットになり、シドニアを守ることになった・・・

人づてにはこの作品の話を聞いていたのだが、独特且つハードなSF設定がアツい。世代宇宙船というだけでも心にグッとくるものがあるのに、アツアツポイントが目白押しである。
戦っている奇居子(ガウナ)という対話が通じない宇宙生命体は、あらゆる通常兵器が効かないのに、カビと呼ばれる特殊物体でだけとどめを刺すことができる。
光合成できる人類というのもすごいが、パイロットには普通にクローンで量産された人がまるで姉妹のようにキャッキャしながら闊歩している。
成人になるまで男女どちらかの性の選択を先延ばしにできる人もいる。
設備や兵器の名前がみな古めかしい漢字で、日本人の祖先の一団が逃げ生き延びたことを想起させるネーミングもよい。戦闘シーンではモニターに漢字ばかりが映し出される違和感が逆に心地よい。
衛人が遠くへ飛翔する際は「掌位」と呼ばれる形で複数の衛人が交差して手をつなぎ合体して飛ぶ。その様子が非常に美しく観ていてほれぼれする。
パイロットたちはスキンスーツと呼ばれる宇宙服を着るのだが、体から放出される水分を余すところなく再生利用するため、スーツを着ると自動的に尿管カテーテルが差し込まれる仕組みになっていて、皆スーツを着る時に「うひゃっ!」という顔をするあたりがリアル。

本作はアニメでは初めて漫画の完結までを取り扱っているため、映像的にはこれで最後ということになるのだと思うが、漫画と全く同じではつまらないとばかりに、いくつかの点で敢えて変更を試みていると思われる。
最後の最後のネタをばらすことになるのでここでは触れないが、それらも話をコンパクトにまとめてカタルシスを得るためにはとても役立っており、納得のオリジナル展開だった。
テレビアニメが最初に始まった時は、フルCGが非常にぎこちなくて、操り人形化というほどのカクカクぶりだったが、本作ではとても滑らかに自然な動きとなっていて、とても楽しめた。

 

 

デューン/砂の惑星(1984)

元々はフランク・ハーバートのSF小説が原典。
もうすぐ公開される予定(2021/10/15)の映画はリメイクにあたり、ここではその原点となっている、デイヴィッド・リンチ監督の劇場版「デューン/砂の惑星」を取り上げる。
西暦1万年以上の未来世界。人類は機械やAIを発達させることで文明を発達させ、宇宙に進出していったが、機械やAIから反乱を起こされ大戦争が勃発する。
その教訓から、中世的かつ精神文化が発達した独自の文明を作り上げた人類は帝国制を敷き、安泰であるかのように見えた。しかし、宇宙船をジャンプさせ長い距離を航行する航宙士(ナヴィゲーター)のスペースギルドや、超能力を持つ教母集団ベネ・ゲセリットなど、皇帝の権威が届かない独自のグループもおり、それぞれが暗躍しており決して平和ではなかった。
彼らが共通して欲しているのはメランジと呼ばれる香料(スパイス)である。これは砂しかない荒涼たる惑星アラキスでしか採取・精製できないが、航宙士がスペースジャンプをしたり、ベネ・ゲセリットが力を発揮するのに不可欠とされており、どの勢力もアラキスに注文していた。
皇帝は、台頭してきた勢力であるアトレイデス公爵家を、子飼いであるハルコンネン男爵家と対立させようと画策するが、それに対してスペースギルドから、「アトレイデスの跡取りであるポール・アトレイデスを殺せ」という謎の進言を受ける。
その策略により、ハルコンネン家に代わり惑星アラキスへの着任を任じられたレト・アトレイデス公爵は、それらの策略をすべて読みつつも移住を完了させるが、ハルコンネンの手は想像以上に早く、より深く迫っていた。
身内の裏切りからハルコンネンの侵攻を許し、ㇾトは殺害される。レトノ妾妃・ジェシカとその息子ポールは辛くも逃げ延び、砂漠の民・フレメンに助けられる。
そこでポールは自らの運命を知るのだった・・・

この映画は中学生の頃に封切られ、直接劇場では見なかったが、ほどなくしてテレビ放映されて、その圧倒的な映像美と世界観に衝撃を受けた。
しかし、話があまりにも難解で、出てくる固有名詞も「ベネ・ゲセリット」「ムアディブ」「クイザッツ・ハデラッハ」などなじみがない名前ばかりで訳が分からなかったため、ちょうどSF小説にはまり始めた時期だったこともあり、原作のフランク・ハーバートの小説を集め、読み出したところ大ハマりした。
もちろんすべて内容を理解できたわけではなかったが、厨二心をグリグリとえぐりくすぐる設定目白押しで、なんてカッコいいんだろうと感動したのを覚えている。
一度小説を読んでから再びこの映画を観ると、制作者の思い入れの深さと、精緻な映像に再び感心し、より没入できるようになった。

後で知ったのだが、映画自体は大コケで、評価もかなり悪かった。デイヴィッド・リンチ監督自身が本作を失敗作と認め、自身の経歴の中の黒歴史的な扱いをしているほどである。
というのも、もともとリンチはこの作品を4時間半で製作したのだが、映画会社から劇場公開にそぐわないとして切り刻まれ、2時間17分に短縮されて封切られてしまった。
当然ながら話はダイジェスト映画のようになり、ところどころつじつまも会わないし心的描写も足りないという残念な映画になってしまったのだった。
また、のちにTVでは189分の長尺版も放映されたのだが、これもリンチの意向はまったくくみ取っておらず、適当な挿絵だけの状態で冒頭7分も延々と続く冗長な説明読み上げから始まるといういただけない内容で、ちょっとだけ劇場版でカットされた幻の映像が使われていたことだけがよかったという悲しい編集。これに自分が監督であるというクレジットを使われるのを潔しとしなかったリンチが、監督名を偽名「アラン・スミシー」に変えたほどである(この「アラン・スミシー」は、当時のハリウッド映画業界で、プロデューサー優位で立場の低かった監督が、自分の意に沿わずに出来上がった作品に抗議する際に慣例的に用いられてきた偽名である)。
でも、個人的にはそれでもこの映画は好きで大傑作だと思っている。
とにかく美術や衣装が半端なくすごい。これを映画を撮るためだけに作って、撮影したら壊しているかと思うと何と贅沢なことをしているのだろうかとため息をついてしまうほどに美しく荘厳。
そして役者たちの演技も素晴らしい。難しい役どころだが、映画初出演・初主演のカイル・マクラクランは見事にポールを演じて見せた。のちにツインピークスをはじめとする様々な話題作に出演することになる。
そして一番は巨大な砂虫(ワーム)、そしてフレメンからは「シャイフルド」と呼ばれるサンドワーム。これのスケールの大きさ・迫力がとにかくすごい。

ただ、小説版の名前になじみがあったので、劇場版とのちょっとした際に改めて気がついて気になった。

 小説版  劇場版

 ムアドディブ ムアディブ

 フレーメン フレメン

 クイサッツ・ハデラッハ クイザッツ・ハデラッハ

 アトレイデ アトレイデス

などなど。
小説版でなじんでいたので、こっちに合わせてほしかったなぁ。まあキメの問題だが。


今回改めて「日本公開30周年記念特別版Blu-Ray」を買ってしまったのだが、それで改めてポールがサンドワームに搭乗するシーンを見ると感動のあまり鳥肌が立って涙がにじんでくるほどである。ああかっちょええ。
この特別版を見て初めて知ったのだが、リンチの前にホドロフスキーという人が映画化しようとして挫折していたようだ。そのキャスティングがまたすごいのだが、これはまた別の話で、ドキュメンタリーが「ホドロフスキーのDUNE」というタイトルで映像化されているようなので、何とか視聴して別の機会に紹介したい。


それにしてもまた「砂の惑星」がマイブームになってしまった。
今度封切られるリメイクも観よう。小説も読み返そう。

 

 

 

転生したらスライムだった件(アニメ 2018)

本作は元々小説投稿サイト「小説家になろう!」で連載されていたが、その後WEB版をプロットとした商業版小説が出版され、コミック化、アニメ化など複数のメディアで展開されている作品。
ただ、小説も漫画も読んだことがないので、最近見終わったアニメ版をベースに以下ネタバレ注意。

37歳の会社員・三上悟は平凡なサラリーマン生活を送っていたが、ある日会社の後輩をかばって通り魔に刺され、死んでしまう。
すると、異世界の洞窟でスライムとしてよみがえったのだった・・・

普通、スライムと聞くとロールプレイングゲームの最弱モンスターという印象だが、本作では悟が転生したスライムが、異質な物質を吸収したり敵と戦い、様々なスキルを身に着けていくことで、だんだん強くなっていく。
洞窟の中で、封印されていた暴風竜・ヴェルドラと知り合い、友達になったところで、お互いに名前を付けあうことになった。ヴェルドラは狂暴で世界を圧倒しまくった強大な竜だが、根は素直で寂しがりだったので、数百年ぶりに現れた会話できる相手ができて喜んだためである。スライムはリムルと名付けられ、ヴェルドラとリムルは同じ姓・テンペストを名乗ることで契りを交わした。
この世界では名前が付けられると、名付け親から魔素というエネルギーを分け与えられてより強大になる。リムルも名前を付けられたことで強化された。
リムルの固有スキル・「捕食者」で封印ごとヴェルドラを自分の仮想空間に取り込み、ヴェルドラは中から、リムルは外から封印を解析して解除することにして、リムルは洞窟を出た。
そこはジュラの大森林と呼ばれる地帯で、魔物が生息する地域だった。リムルはそこでゴブリンの一族と出会い、乞われて盟主となる。
その後も様々な魔物と出会い、仲間に加え、周りの国からも無視できない規模の集団へ成長していき、ジュラ=テンペスト連邦国を樹立する。
そのあと、世に10人いるという魔王たちと知り合いになったり、目覚めた災厄クラスの魔物と戦ったり、隣国に狙われて戦争になったり、ついにはリムルも魔王になったりするのだった・・・

とにかくリムルの「捕食者」というスキルが強すぎる。なんでも吸収して自分の能力にしてしまうわけで、どうしてこのスキルがリムルに備わっているのか、という理屈が欲しいところなのだが、まあそういう説明はエヴァンゲリオン以降、野暮ということになっているので致し方ない。
そして捕食者以上にチートなのが「大賢者(エイチアルモノ)」というスキル。最初はよくあるRPGの「レベルが上がりました」的な声(世界の言葉)の担当というだけだと思っていたのだが、次第にこの声がどんなことでも演算して解を出してくれて、戦闘まで代わりにやってくれるという便利さ。
平坦な機械的発声なのだが、だんだん自我が感じられるような応答になっていき、魔王覚醒時には「智慧之王(ラファエル)」にまで進化してしまうのがよくできている。というかリムルの危機脱出はほぼほぼこの大賢者に頼りっきりであり、これがなかったら何度も詰んでいる。こいつが反逆したらどうなるんだろう?この先であるのそういう話?

また、元人間の転生者で現スライムという状態が象徴的なのは、魔王に進化するために1万人の人間を殺さなければならないという状況で、仲間を生き返らせるためとはいえ躊躇なく敵対していた軍隊を全滅させたところ。普通の物語であれば元人間としての葛藤を描きたくなるところなのだが、そこをぐっとこらえているのかいないのか、ほぼ語られることなくあっさりと殲滅しているところが新しいと思った。

仲間たちがリムルに反目することはなく、あくまでもどこまでも従順。ここも、通常であれば主に反発する部下や、ライバル視してくる別の国の盟主などが出てくるのがセオリーだが、それを敢えて触れないところに好感が持てる。
そして名付けシステムが非常によくできている。名のない魔物に名前を付けると、名前を付けた方の魔力が付けられた方に移動し進化するという仕組みがよく考えられている。これがあるとストーリーが大きく膨らむし、強い動機付けにもつながってわかりやすい。

小説版はずっと先を行っているようだが、アニメを待つか、小説を読んでしまうか、う~ん悩ましい。