観たり読んだり備忘録

片端から忘れてしまう観たものや読んだものを、記憶にとどめておくためにちょいちょいと走り書きとして残してます。それ以外もちょこちょこと。

レディ・プレイヤー1(2018)

 スピルバーグ監督のSF映画。

2045年の近未来。様々な社会問題で社会は疲弊し、貧困層が多く、人々はオアシスというVR(仮想現実)ゲームに耽溺することで現実逃避を図っていた。
オアシスの創始者のひとりであるハリデーは、自分の死後、ゲーム内にイースターエッグというアイテムを隠した。3つのキーを手に入れた者だけがこれを手にすることができ、それはオアシスの運営権、およびハリデーの遺産56億ドルを手にすることを意味していた。
オアシス中のプレイヤーがイースターエッグ争奪戦に参加し、エッグ・ハンター、略してガンターと呼ばれた。
ガンターたちがエッグを探して5年経過したが、まだ第一のキーも見つかっていない中、幼いころ両親を亡くして叔母に引き取られた少年・ジェイドもガンターの一人・パーシヴァルとしてエッグ探しに夢中になっていた。
ハリデーの過去の記録からヒントを得たパーシヴァルは見事に第一のキーを手にする最初の一人となり、一躍オアシス内の時の人となる。
大量の人員を投入してキーを奪取しようとしていたオアシスの運営権を狙う企業IOIの社長、ソレントは、パーシヴァルを買収しようとするがうまくいかず、抹殺しようとジェイドが暮らしていた叔母のトレーラーハウスを爆破する。
身寄りが亡くなったジェイドはIOIへのレジスタンスに助けられ、そこでオアシス内で知り合い惹かれていた少女、アルテミスことサマンサと出会い、ともにキーの獲得を目指すのだった・・・

VRMMOVirtual reality Massively Multiplayer Online Game 仮想現実大規模多人数同時参加型オンラインゲーム)という考え方は、日本でもソードアート・オンラインが大人気になったことでそれなりに市民権を得たが、原作のSF小説を執筆したアーネスト・クラインによると、2001年の押井守映画「アヴァロン」に影響を受けているとのことである。「アヴァロン」はすごく好きで、もう何回映画を観たかわからないくらいなので、いずれここでも取り上げるつもりだが、すごくよくわかるわ。というか影響を受けたどころではなく丸パクリな気もするが。

ただ、本作ではVRゴーグルをかけながら動き回ったり、無防備な状態なのに街中で平気でゲームをプレイしたりしており、ちょっと詰めが甘い気もする。VRMMOをプレイしている時はすべての感覚がリアルに再現されているという建前があるので、現実世界で体を動かしながらゲームをする余裕はないはずだから。

また、よく言えば柔軟に、悪く言えば節操なく、日本とアメリカのオタク作品ネタをモリモリと取り込んでいるのも特徴の一つで、登場人物の一人が「俺はガンダムで行く!」と叫んで、見る見るうちにガンダムそのものに変身していくという奇妙奇天烈な、それでいてちょっとそそる映像が日本でも映画のCMとして頻繁に流れている時期があったので、あのイメージがとても強い。
ただ、実際はそれどころではなく、AKIRA、スターウォーズ指輪物語デューン砂の惑星インベーダーゲームゴジラ市民ケーン、シャイニング、バックトゥザフューチャー、グーニーズグレムリンロボコップターミネーターなどやりたい放題である。
原作小説には出てきたが、大人の事情で採用を見送ったコンテンツとして、ウルトラマン、および東映TV版スパイダーマンに出てきたロボ・レオパルドンがあるようで、こっちをぜひとも見てみたかった。特にレオパルドン。マーベラーという宇宙船から変形するシーンも込みだったそうで本当に残念である。

ネタを盛りすぎたおかげでストーリーがとっ散らかっている部分があるのは否めない。まあこれだけ入れたら仕方がないのかもしれないが。IOI社長ソレントも冷徹で賢い経営者と思わせつつ最後はアホな立ち回りをするしなぁ。

まあでも、「こまけえことはいいんだよ!」とスピルバーグが言っているような気がするので不問に付そう。楽しければそれでよし。

レディ・プレイヤー1(吹替版)

レディ・プレイヤー1(吹替版)

  • 発売日: 2018/06/27
  • メディア: Prime Video
 

 

スカイラーク3号(1930 エドワード・エルマー・スミス)

 

E・E・スミスの「宇宙のスカイラーク」シリーズ第2弾。

前作でスカイラーク2号を駆り、オスノーム国と友好な交流を行うことができたシートン一行。
地球に帰ってからしばらくすると、オスノームのデュナーク皇太子とシタール皇太妃が宇宙船でやってきた。
隣国と戦争状態になっており、金属Xを分けてもらいに来たのだった。
前回の旅で、Xが大量に存在する惑星を発見していたシートンはその依頼を快諾しつつ、オスノームとその敵国コンダールの和平へ向けて動き出す。
また、全ての力場を遮断する代わりに、光や電波も遮断してしまうため外界と接触が一切不可能になってしまう防御力である「力帯域」を開発するが、これをさらに駆使するべく、銀河の中で高度な知性を持った文明を探し、ノルラミンへたどり着く。
そして、銀河を征服しようとたくらむフェナクローンとの戦いに備えるのであった。
一方、シートンの仇敵デュケーヌも、その技術をシートンから奪うべく活動を開始していた・・・

本作もストーリー展開が目まぐるしく、またシートンやノルラミンによる技術開発が次から次へ行われるため、新しい道具や武器がてんこ盛りで出てくる。
本作の中で一番目立つのは巨大宇宙船・スカイラーク3号の建設だが、ここに至るまで、ダゾールのイルカ人間に会ってその都市での生活を見物し、非常に古い文明を持つノルラミンを発見し、ここで脳みそごと知識を伝授してもらい、ついには第五次光線を操るための高圧縮レンズを恒星の中で作って力帯域を自由に使いこなし、星間を隔てた距離での音声や立体映像の送信もやってのけるなど、今見てもすごいなあと思う技術が目白押し。
これを今から90年前に思いついて小説にしているのだから、脱帽するしかない。
また、単にシートンたちがどんどん新しいことを発見して開発して強くなっていって、というだけだと話が単調になるのだが、そこにいろんな姑息な手段を惜しげもなく使って新技術を吸収し、シートンの前に立ちはだかろうとするデュケーヌの存在が、話に彩を与えてくれる。
といっても古き良きアメリカのストーリーなので、主人公が大活躍し正義は勝ち、その反対勢力はなかなかそれに打ち勝つことはできないので、デュケーヌはもう少しうまくやれるだけの頭脳や行動力を持っている男なはずなのだが、いつもシートンに一手先を取られ続けているのがちょっとかわいそう。

また、もともとE・E・スミスはラブロマンスの描写の類はとても苦手で、そういうパートは友人の奥さんに任せていたようなのだが、前作に引き続き、リチャード・シートンとドロシー、レイノルズ・クレインとマーガレットの間のイチャイチャっぷりといったらない。これをその奥さんが書いていたのか・・・やるなぁ。
まだまだマッチョな世界観が主流だったころの話なので、ひたすら男が話を進めて活躍し、女性は男に寄り添ってその美しさで花を添えるだけ、という感じなのは仕方がないとして、危険な宇宙船の旅行にすべてついていくあたりは、当時としては十分に先進的なのであろう。

魔女の宅急便(2014)

 原作は児童書だが、ジブリのアニメ映画で有名。そちらの方ではなく、実写版の映画を観た。
ストーリーの大筋はアニメと同じ。修行のため1年間他の町で暮らすこと、キキは箒(ほうき)で飛ぶ魔法しか使えないこと、猫のジジが一緒に行ったこと、パン屋さんの夫婦の元で居候し、空を飛びたいメガネの男の子と知り合いになり、スランプで飛べなくなって・・・あたり。

だが、違う点もある。
一番大きな違いは、キキが訪れる町が日本の離島ということだ。小豆島がロケ地だったとのことだが、ちょっと南国テイストもある日本という絶妙なロケーションが物語によく合っていた。
また、最後のエピソードもオリジナル。ネタバレはやめておくが、キキがスランプを脱するまでの心の葛藤と決意をよく表しているいい話であった。

登場人物はもちろん全員日本人なのだが、やはり日本のアニメのイメージが濃く、逆に欧米の人が出てきたらかなり違和感があるので、これもまたよし、であろう。

キャスティングについては、当時かなり批判があったことを今でも覚えている。
主演の小芝風花がオーディションで選ばれた素人だったということもあり、「キキはこんなんじゃない!」という声が多かったのだろうが、のちに朝ドラに出たりして、その美少女っぷりを目の当たりにしたので、キャスティングした人の目利きはさすがとしか言いようがない。今になってやっとこの映画を観た身からすると、逆に小芝風花に風格さえ感じられる主役ぶりだった。

唯一ちょっと…と思ったのは、猫のジジがCGだったこと。なんかCGの猫って気持ち悪いんだよな・・・実写だとまたちょっとおかしい感じになってしまうのは否めないし、だからと言ってぬいぐるみだとどっちらけなので、致し方ない選択なのはわかるが、ちょっと違ったなぁ。

まあでも、小豆島の美しい風景とファンタジーはよくあっていたし、やはり小芝キキはとても頑張っていてよかった。いい映画だったな~。

魔女の宅急便

魔女の宅急便

  • 発売日: 2014/12/19
  • メディア: Prime Video
 

 

宇宙のスカイラーク(1928 エドワード・エルマー・スミス)

 今から100年近く前に発表された、レンズマンシリーズの作者のもう一つのSFシリーズ小説。

アメリカの研究所で働く物理化学者リチャード・シートンは、自分の研究室で、プラチナを生成したあとの残滓に含まれていた金属を分離する作業を行っていたが、突然研究室の壁に大穴が空き、唖然としていた。
色々調べたところ、隣の部屋に置かれている特殊なサイクロトロン「ワッツィトロン」が発生させる場の中で、その金属に銅線から電気を流すと、その金属が触媒となり、銅のエネルギーが100%解放されることが分かった。
この金属を「X」と名付けたシートンはそのポテンシャルに気付き、親友であり富豪のクレイン・シートンに相談し、その金属を合法的に研究所内の競売で競り落として入手した後、研究を重ねてX金属の実用化に着手し、宇宙船を建造した。宇宙船はシートンの婚約者ドロシーによって「スカイラーク」と名付けられ、着々と準備が進められた。
しかし、シートンの研究所の同僚で、「ワッツィトロン」の開発者であるデュケーヌは、シートンが発見したX金属の有用性に気づき、悪徳業者と共謀してシートンを殺してXを奪おうとしたがうまくいかず、Xのみを盗み出した。
その後デュケーヌはシートンの宇宙船の設計図を入手して同じものを建造し、ドロシーを誘拐して宇宙へ逃亡する。
シートンとクレインはさらに改良を重ねた「スカイラーク2号」を建造し、デュケーヌらとドロシーを追って宇宙へ旅立つのだった・・・。

本作はスミスのデビュー作だが、100年前に書かれたとは思えない自由な発想と壮大なスケールに感動して身震いしてしまう。
銅のエネルギーを100%開放するという発想がまずすごい。例えば原子力で言えば、核分裂によってごくごくわずかな質量がエネルギーに変換されるだけであの膨大なエネルギーが発生しているわけだが、それを100%開放できるとなるとどれだけものすごいエネルギーになるか想像もつかない。
光速も当たり前のように超えていく。のちにレンズマンシリーズで理論づけられた無慣性航行のような派手な理屈はないのだが、やはり宇宙SFは光速を越えてなんぼであろう。

最初の方は目新しい宇宙旅行自体が驚異であり冒険なのだが、物語の後半ではオスノーム世界へたどり着き、異星人たちとの交流や冒険が繰り広げられる。異文化との接触という意味でもなかなか興味深く、オスノーム人たちと使用している可視光線の周波数が異なるため、彼らのライトの下では地球人の肌や服も普段見ている色とまるで違う色になってしまうし、オスノーム人がスカイラーク号のライトの下に来ると皆恥ずかしがってしまうというくだりも興味深い。
そしてオスノームのアレナックという強靭な金属でスカイラークを建造し直す描写や、アレナックの製造に塩が欠かせず、シートンたちが食事のためにもっていった微量の塩を大切に使っている様など、よく考えられているなあと感心する。

過去、本作を何人かの人に読むよう勧めたのだが、皆一様に、内容が古すぎてついていけないと言われてしまった。確かに「X金属」だからなぁ・・・クレインの使用人が日本人で謎の武術を使うし。いつの時代だよと言いたくなるのもわからなくはない。ただ、100年前でこの発想というのは稀有であり、愛でるに値すると今でも思っているので、定期的に読み返すために、所有している文庫とは別にメルカリでもう1セット手に入れた。今後もずっと読み返すことだろう。

宇宙のスカイラーク

宇宙のスカイラーク

 

 

老人力(1999 赤瀬川源平)

物忘れが激しくなったり、頑固になったりするのは老化によるデメリットというのが通常の感覚だが、それを「物忘れが激しくなることによってイヤなことを忘れ、前向きになれる」「頑固というのは意志が強固になったということ」というプラス方向に変化しているのであり、それを「老人力がついた」と表現するという、パラダイム変換の典型のような考え方。
この発想を考案し、世に出したのが、路上観察学や超芸術トマソンで有名な赤瀬川源平。彼は主にこれらのエッセイを雑誌「ちくま」に連載していて、それをまとめた筑摩書房の「老人力」「老人力②」をまとめたのがこの文庫版ということになる。

この筑摩書房版が発行されたあと、しばらくこの老人力ブームになり、赤瀬川源平もいろいろなところで講演を行ったりしたらしいのだが、やはりそこにくるのは老人ばかりで、みな救いを求めるように彼の話を聞いていたというあたりが、当たり前のことではあると思うがちょっとおかしい。

 この本を初めて読んだのは30歳をちょっとすぎたくらい。当時でさえ、ああわかるわかる物忘れ激しくなったもんなぁと思いながら読んでいたのだが、現在はもうそんなの当たり前すぎてトピックにすら思わないという年代である。そう考えると順調に老人力はアップしており、我ながら頼もしい限りである。
というより、現代の世の中の老人たちは元気がありすぎて、老人力を爆発させているようにも見える。昔はこの概念に老化に対抗するための救いを求めていたのが、今では老人に力があることは当たり前になり、誰も不思議に思わなくなっているというのも不思議な話である。

もちろん、自分がもっと老人になった暁にはもっと元気になって、若者から疎まれる程になりたいと思う。迷惑はかけたくないが。

 

老人力 全一冊 (ちくま文庫)

老人力 全一冊 (ちくま文庫)

 

 

 

 

SF西遊記スタージンガー(1978)

 70年代に放映されていたアニメ。

銀河系の中心にあるギャラクシーエナジーが弱まったことで、宇宙は混乱していた。本来はおとなしいはずの宇宙生物もモンスター化し、各地で被害が勃発。
これを収めるには、地球のオーロラ姫の力が必要だったが、銀河の中心までは途方もない長距離の宇宙船による旅路であり、守護者が必要だった。
そこで、銀河系の暴れん坊と名高いサイボーグであるジャン・クーゴ、ドン・ハッカ、サー・ジョーゴの三人が旅のお供としてオーロラ姫と行動を共にして銀河の中心を目指す、というストーリー。

原作というか原案の西遊記にかなり寄せた設定になっており、孫悟空であるところのジャン・クーゴはかなりの暴れん坊で、軍を壊滅させるなどして関係者の手を散々焼かせた挙句、幽閉されていたところをスカウトされる。最初は女の護衛などまっぴらだ、という感じで拒否していたが、その同行を解放の条件にされ、いやいやこの旅に付き合うことになった。旅を続けるうち、次第にオーロラ姫の高潔な人柄に感銘を受け、自らの意志で付き従うようになる。
ドン・ハッカ、サー・ジョーゴはそれぞれサブキャラでジャン・クーゴの圧倒的な武闘力には及ばないが、それぞれ体に武器が仕込まれていたりして戦闘力はそれなりに高く、有能な従者たちである。

いろいろなエピソードの中で特に好きなのが、ジャン・クーゴが常に携帯しているアストロボーという武器で、これがいわゆる如意棒である。ジャン・クーゴは自分から志願してサイボーグになったのだが、サイボーグ化が完了した後、武器庫から一つだけ自分の武器を持っていってよいという許可を受け、いろいろ試したものの、彼の力が強すぎて、銃を持っては握りつぶしてしまい、ヌンチャクを振り回しては鎖を切って、という感じで使える武器がない。
いろいろ見ていたところ、武器庫の奥にある巨大なエネルギーポリマーのチューブを見つけ、これを力づくで引き抜いて、振り回してなぜか縮小化させ、さらに2本に折って腰に装着させたのであった。
このアストロボーが必要な時には1本にくっつき、さらには伸ばしたりできる理屈は特に語られてはいないのだが、そんな風にジャン・クーゴが自在に操ってみせるのがやたらとかっこよくて憧れた記憶がある。

本作は好評だったようで、銀河の中心にたどり着き、オーロラ姫がギャラクシーエナジーを担う女王として世代交代をした後、まだまだ銀河の辺境部にはギャラクシーエナジーが届いていない地域があるとして巡業の旅に出るという「スタージンガーⅡ」が放映されており、そちらも楽しく視聴した覚えがある。

そして何よりかっこいいのがささきいさおの主題歌で、今でもドライブ中はよくかけるし、カラオケでも何十回と歌っている。素晴らしい作品である。

 

かぼちゃワイン(1981)

 80年代に少年誌に連載されていたラブコメ漫画。たまたま無料漫画サイト(広告収入系で作者に掲載許可されているサイト)に掲載されており、一気読みしたので懐かしくて書く。

青葉春助はサンシャイン学園中等部2年に転校してきた。背は低いが気が強くケンカっぱやい。硬派を気取っているが実家はランジェリーショップで、ひそかにコンプレックスになっている。
朝丘夏美は同じクラスでチアガール部に所属。おっとりした気立の良い美人でクラスのアイドル。大柄なことから「L」(エル)と呼ばれているが、転校してきた春助に一目ぼれして、その後は一途に春助へアタックし続ける。
春助は何しろ自称硬派なので、そういった女性からのアプローチははねつけようとするのだが、何しろ相手は健気でやさしくて可愛くてグラマーで自分に惚れている女性なわけなので、いやだいやだと言いながらも惹かれていき、のちにはSLコンビなどと呼ばれる学園の名物カップルになっていく。
本作はこの二人と周りの友人たちが織り成すラブコメとドタバタ劇で構成されている。

当時、本作がアンテナに引っかかったのは、僕自身がかなり身長が低く、コンプレックスに思っていたからというのが大きい。とても春助のように「てやんでぇ!」調では生きられなかったので、頼もしくうらやましい。
そして現実ではなかなかあり得ない、大柄女子からのアプローチ。体が小さい男は、高身長女子から好かれることはほぼほぼなく、レアなシチュエーションなだけに憧れがあるのである。
本作はそういう低身長男子の願望や憧憬を見事に描き表した作品であると言える。

しかしエルほどの素敵女性をこれだけはねつけ続けることができる春助に対して、最初は潔くてかっこいいと思っていたのだが、あまりにもエルがけなげすぎるので途中から「おい、もういいかげんに受け入れてやらんかい!」イライラが募ってくるのもまた事実。
まあ、受け入れた瞬間にこのラブコメのストーリーは終了してしまうのは誰の目にも明らかなので、話を続ける以上は春助がエルを受け入れてはいけないのだが、それにしてもあざとすぎて、まんまと作者の術中にはまってやきもきしてしまうのであった。
それにしてももうこれが40年前か。歳とるわけだ・・・

ちなみに本作はアニメ化もされており、そちらもそこそこ面白かった記憶がある。Wikiを見ると、漫画とは細かい設定が異なっていたようだが、観ている当時はそんな細かいところには気が付かなかった。
主題歌があまりにもラブリーすぎて、親がいるところでは恥ずかしくて一緒に観ていられなかったのを思い出す。あれからウン十年たち、たまたま近くの図書館に置いてあった「懐かしアニメ主題歌全集」のCDに入っていて、久しぶりに聴いたら当時の思いがよみがえってきて頬がほてってしまった。かぁ~っ!