観たり読んだり備忘録

片端から忘れてしまう観たものや読んだものを、記憶にとどめておくためにちょいちょいと走り書きとして残してます。それ以外もちょこちょこと。

荒野の決闘(1946)

毎年お正月になぜかBSで西部劇をやっているが、今年もやっており、なんとなく観た。

アープ兄弟は一旗揚げようとカリフォルニアまで牛を連れて旅をしていた。荒野の中でクラントン一家と出会い、投手のオールド・マン・クラントンから執拗に牛を売るよう迫るがそれを固辞し、次の町トゥームストーンへ急ぐ。
トゥームストーンで暴れるインディアンを制圧したワイアット・アープは、最初町長から保安官になるよう要請され断るが、牛の番として残していた四男ジェームズが射殺され、その仇を取るために保安官となる。
酒場で知り合った気難しい賭場の元締め、ドク・ホリディ。常に周りへケンカを売るような彼の投げやりな態度を気にかけつつ、保安官として酒場に出入りしていたワイアットは、ドクを追ってきた彼の恋人・クレメンタインの美しさに心打たれ、彼女に便宜を図る。
しかしドクは不治の病・結核に犯されており、元は将来を嘱望された外科医だったがここで自暴自棄な生活を過ごしていた。クレメンタインの願いもむなしく、彼に故郷へ帰る気はなかった。
失意の彼女を元気づけようと、ワイアットは彼女は日曜の礼拝の後のダンスに誘い、ワイアットの他の兄弟たちは嬉しそうに踊るワイアットを見て驚くのだった。
ドクの情婦チワワが身に着けていた銀の首飾りから、ジェームズを射殺したのがクラントン一家であることを悟ったワイアットは・・・

元々は「OK牧場の決闘」と呼ばれる実際にあったアメリカ西部の銃撃戦が史実としてあり、それがたびたび映画化され、本作は3作目の映画となる。
他の映画と比べても史実とは大きく筋書きが異なり、詩情優先の風情豊かな作品とのことである。
たしかに本作は血なまぐさく荒々しい男たちのストーリーであるにもかかわらず、ワイアットがクレメンタインの美しさにハッと惹かれたり、それでも強引に彼女に迫るのではなくジェントルに気遣ったりする様子を視線だけで演じたりする芸の細かさにほれぼれするタイプの映画だった。ワイアットに限らず、登場人物たちの目の表情が皆豊かで、演出としてこだわっていたのかもしれない。
また、ガンマンと言えば「俺の銃が火を噴くぜ!」的に自分の持っている武器をこれ見よがしに誇示するイメージがあるが、本作はかなりその辺はあっさりしていて一瞬で銃を抜き打つまでにためらいがない。本来はこうなんだろうなと思わせるものがある。
あくまでも人殺しの道具でありそれ以上でも以下でもない感じがカッコいい。
そしてそんな非情な戦いを繰り広げているのに、ワイアットはウルウルした目でクレメンタインへ別れを告げ、控えめな頬へのキスだけで旅立っていくのである。かっこいいね!まあ、クレメンタイン役のキャシー・ダウンズがあまりにもきれいなのでそれも納得である。
主題歌の「いとしのクレメンタイン」は、本作の原題でもあり、元は「黒人女性の恋人が溺死して幽霊になる」、というホラーなストーリーの民謡バラードであるらしいのだが、それがなぜこうなった?
そして日本でなんで「雪山賛歌」となったのであろう。歌詞がかけ離れすぎていて謎である。どうも京都大学山岳部が作った歌らしいが、よくこの曲を引っ張ってきたものだ。

 

牙狼〈GARO〉-GOLDSTORM- 翔(2014)

封切当時、映画館に見に行ったのかレンタルで借りたのか忘れたが、すぐ見た記憶がある。年始にまたテレビでやっていたので、もう10年ぶりに懐かしく視聴。ネタバレ御免。

黄金騎士GARO牙狼>のシリーズはいくつかあるが、メインストリームの冴島綱牙ではなく、あとからできた道外流牙シリーズの方。道外流牙の最初のTVシリーズが終わり、次のTVシリーズに行く前の序章としての劇場版という位置づけ。

壮絶な戦いを経て、牙狼に黄金の輝きを再びもたらした流牙であったが、その代償として牙狼の鎧には、流牙の体調に不調をきたすほどのホラーの邪気がたまっており、その除去が必須となっていた。
彼らがいるところからほど近いタウンに、高名な魔戒法師がおり、その者であれば邪気を払ってもらえるだろうという推測の元、流牙とそれをサポートする魔戒法師・莉杏は、伝説の魔戒法師・リュメの元を訪れ、鎧の浄化を依頼し、リュメは快く了承するが、浄化には丸一日かかるという。
その間鎧が召喚できないことに一抹の不安を覚える流牙だったが、このまちはリュメが地脈からその方力を流し込むことで、ホラーが活動できない街となっており、流牙と莉杏はつかの間の休息を楽しみ、Dリンゴと名乗る怪しい還暦近そうなジジイのケバブ屋で、思いのほかおいしかったケバブを満喫するのだった。

しかし、町はずれの遺跡では、魔戒法師たちが守っていたホラーの腕が何者かに奪われた。それを追いかける流牙たちは奪っていったものが、過去の伝説の魔戒法師によって作られた阿号という人間型道具であることを知る。
阿号は流牙たちと激闘を繰り広げた後、奪ったホラーの腕と共にリュメの元へ訪れそれを撃退し、リュメを拘束した上で、毎月リュメが法力を流している地脈へホラーの邪気を流そうとしていた。
それを阻止しようとする流牙・莉杏・Dリンゴたち。戦いの火ぶたは切って落とされた・・・

最初の「冴島綱牙」シリーズが森の奥の自然の中のシリーズだとすると、この「道外流牙」のシリーズは大規模なタウンの中のうらぶれた闇が戦場なので、都会派牙狼として対称的である。
流牙の第一TVシリーズでは同格の魔戒騎士があと二人いて、かっこいい魔戒騎士が3人一気に変身するのが醍醐味だったのだが、流牙以外はどちらも中の人が問題を起こしてしまったので、今後使ってもらえることはないだろう。本当は魔戒騎士トリオでいろんなシリーズを出し事件を解決してほしかったのだが・・・ファンとしては非常に残念。
ただ、本作は、このあとのTVシリーズである、闇落ちした魔戒騎士・神牙(ジンガ)のシリーズの直前の閑話休題的ストーリーとなっており、前作の容赦ない激闘と苛烈な流牙の過去を観てきた身からすると、これくらいホッとする場面が多くてもいいよね、という気になる。
あと、阿号の活動原理がちょっと弱いので、あまり同情できないというか、「まあ、機械の戯言だあね」とみんなに言われて終わってしまう理屈だったのが少し残念。もう少し「それなら阿号がそう言うのもしょうがないよ~(泣)」くらいな泣きポイントを入れてくれてもよかったかも。あと、阿号の背中からびゃーっと出てくる巻物の長い腕みたいなやつ、あれはスパイダーマン2だか3だかに出てきた敵の武器と似ていて、ちょっと二番煎じ感があったのは残念。

まだこの時点での流牙と莉杏は若くて生意気な男女同士な感じで、お互いケンカしながらも意識し合っていててキャッキャウフフしている。もうカップルになる直前の秒読み状態に見える二人としては一番いい時期を過ごしている。これが神牙シリーズでいろいろ厳しい状況を突き付けられることになるのだが、今はまだイチャイチャを楽しんでおいてくれと思ってしまう、流牙と莉杏のためのインターミッション的なストーリーだった。
柄本明演じる伝説の魔戒法師が作った人型魔道具・阿号が朽ち果てた姿に、少女のころからお花のお供えを続けたのが角替和枝柄本明の実の妻)というのもイカス。わかってますね~。

最後のスタッフロールに出てくるいくつかの映像部分は、映画ではなくこれから始まるテレビシリーズがちょっとずつお目見えしていたんだな。そういえばそうだったな~。
こうやって劇場版の中にTVシリーズを盛り上げるネタを仕込んでおくというのはなかなか珍しい趣向だった。

garo-project.jp

カムイ外伝(2009)

年始のTV映画で視聴。漫画は読んだことがないので、ストーリー含め初見。ネタバレ注意。

貧乏底辺の生まれで忍びの者になるしか道のなかったカムイ。その宿命に嫌気が差し、抜け忍となって逃亡するが、追い忍による執拗な追手は途絶えることがなく、彼らと戦い続けるカムイに安息の時はない。
ある日カムイは、領主の馬の脚を斧で叩き切って盗み逃げた漁師・半兵衛を行き掛かりで助け、鄙びた漁村で彼の家族と暮らすことになった。半兵衛の妻・お鹿は抜け忍であり、幼いころのカムイが一戦交えたスガルであった。彼女は最初カムイに心を開こうとせず、自らの守る家族のためカムイを殺害しようとするが、カムイが同じ抜け忍であることを知り、彼の命を狙うのをやめる。
一方、領主は自らの愛馬の脚を切って盗んだ者の人相書きを街に広め、犯人を割り出そうとしていた。半兵衛の娘に横恋慕していた若者によって告げ口され、半兵衛一家は漁村を出奔し、離島を目指す。離島の人々に温かく迎えられた一家はそこで暮らし始める。

一家が離党の村に定着してしばらくたったある頃、鮫狩りの一派「渡り衆」がやってきて・・・

最初の方ではいわゆる抜け忍カムイと追い忍たちの戦いが次々に描かれ、息つく暇もないアクションシーンの連続で見ごたえがある。ワイヤーアクションとCGが上手く使われていて、松山ケンイチの藪にらみ演技も演出に華を添える。
そのまま逃げていくカムイが描かれるのかと思いきや、漁村で日常的な生活を送るカムイが描かれており、ちょっと意外だった。だいぶ原作に忠実なようなのだが、ずっと逃げたり戦ったりの連続を無意識に期待してしまったらしい。まあ、そういう貧困なイメージしかもってなかったもんなぁ。
実際は、一般的な市井の人々の生活を知ったカムイの成長や挫折を描くために必要な描写、ということなのだろう。
それにしても餌木を作りたいからと言って、殿様の馬の脚をわざわざ狙うかね。イノシシか鹿を狩った方がどう考えても合理的なのだが、自分から問題を大きくしにいっているようにしか見えず、「はて?」となってしまった。
「渡り衆」は物語後半の重要なキーになるが、いろいろと心地よい感じを醸しておいてからの「やっぱりそうですよね~」感があってよかった。やっぱりこうでないとなぁ。

あとから調べて「カムイ伝」と「カムイ外伝」が別物であることを知り、びっくりした。カムイは「カムイ伝」に出てくる登場人物の一人であり、「カムイ外伝」はスピンオフだったのか。「カムイ伝」も「カムイ外伝」も漫画を読んでみたくなった。
あと、松山ケンイチ小雪はこの映画で出会って交際、結婚したとのことでなれそめ作品でもある。この映画の中でも小雪はあまりにも美しすぎて漁民らしくなく浮いて見えるもんなぁ。そりゃ惚れるわ。

 

 

グランド・ブダペスト・ホテル(2014)

ほぼ前情報なしでアマプラ評価のみで視聴。

観光名所になっている銅像の前に訪れた女性。それはとある作家の像で、彼がズブロフカにある瀟洒なホテル、グランド・ブダペスト・ホテルへ滞在した際に見聞きしたことをにまとめた本が有名である。その本を読み始める女性・・・
1968年。若き小説家はあまり流行っているとは言えない、シングルの客だけがチラホラと滞在している「グランド・ブダペスト・ホテル」に宿泊していた。そこでホテルのオーナーであり国一番の富豪と言われているゼロ・ムスタファと知り合う。彼もまたおひとり様でよくこのホテルに泊まりに来ているが、オーナーであるにもかかわらず、物置のような小さな部屋に泊まっている風変わりな男である。彼にこのホテルを入手した経緯を聴こうとした作家は、ゼロから夕食に誘われ、そこで長い長い物語を聴くことになる。
1932年、戦争で家族を失い、移民として一人この国へやってきたゼロ・ムスタファは、なんとかグランド・ブダペスト・ホテルのベルボーイとして潜り込み、ひょんなことから伝説のコンシェルジュであるグスタヴに見い出され、仕事の心得やノウハウを教えられながら側近として働く。また、ホテルに洋菓子を仕入れているお店の職人アガサと惹かれあい、付き合うようになる。
ある日、グスタヴはいつものようにホテルの上客であり大富豪の伯爵夫人・マダムDの相手をしていたが、彼女が強い不安を訴え、自分と一緒に帰ってほしいという彼女の願いを軽くいなし、彼女を一人で帰らせた。しかし1か月後、新聞で彼女の死亡時期を見つけ、あの時の不安は根拠があったのだと悟る。急ぎ彼女の家に駆け付けたグスタヴとゼロは、相続金目当ての息子や姉妹たちとの遺産争いに巻き込まれていく、というか積極的に巻き込みに行っている・・・?

とあらすじを書いてみたものの、この映画の本筋はストーリーではなく、舞台装置的な美術と場面転換、カット割りにある。
セリフもかなり舞台口調というか癖のある仰々しい演出なのだが、セットがとにかくもうものすごく豪華で精緻で美しく、カラフルでありながらセンスが良い。それがクルクルと変わる場面転換で惜しげもなく使用されるので、見ている観客はまずそれに圧倒されて感心しため息をつく。
それとは裏腹に大変な早口で勝手なことばかりを言い散らかしているグスタヴと冷静なゼロの掛け合いがアンマッチで面白く、気がついたら「フフッ」と笑ってしまっている。これもまた制作側の意図通りでありちょっと悔しいが、面白いのだから仕方がない。
ただ、ユーモラスなストーリー展開の中にも、戦争で経験した暴力や不条理、お金はあっても孤独な不幸や、出身や階級に対する蔑視やパワハラなどの悲哀も硬軟織り交ぜてくるあたりが徳の高さを一層増している。
一瞬だけ現れる小ネタも随所に挟んであって、とても全部はわからないが、ドイツの人ならだいぶわかるのだろうか。
あとから調べたところ、場面ごとに画面のアスペクト比が変更されており、今どの時間軸の話に移ったかがわかるようになっている。正直よくわからなかったが、おシャンティな演出をするなぁ。
最後、ゼロが小さな小部屋に帰っていくシーンで回収される、ゼロのグスタヴへの思いが泣ける。大団円ではないが、そういう余韻を残して終わるところがまたカッコよく、そりゃベルリン映画祭やアカデミー賞ゴールデングローブ賞を獲るよなぁと納得する出来映えだった。

 

 

バグダッド・カフェ(1987)

なんとなく名前だけは以前から聞いていた。たまたまアマプラで視聴。

アメリカのモハーヴェ砂漠を貫くフリーウェイ。車で旅行していたドイツ人夫婦はそこで大喧嘩をして、旦那は車で去り、妻のジャスミンは徒歩でスーツケースを引っ張りながら、遠くに見える建物へ歩き出した。そこにはガソリンスタンドとモーテルを兼ねた「バグダッド・カフェ」があった。
一方、バグダッド・カフェの女主人ブレンダは、ちっとも気が利かず働かない亭主サルに愛想をつかして叩き出し、子供たちにもぷんぷん怒り散らす。カフェはコーヒーマシンすら故障しており、開店休業状態となっていた。
そこに訪れたジャスミン。モーテルの1号室に部屋を取り、部屋で荷物を広げたが、中身は旦那の服や趣味の手品道具しか入っておらず、途方に暮れる。
仕方なくカフェへ行って、サルが拾ってきた、実はジャスミンの持ち物でドイツ人の旦那が道に放り出して行った魔法瓶からコーヒーを飲むのだった。
ブレンダは、謎のドイツ人女性ジャスミンに警戒心をあらわにし、保安官まで呼び出してあわよくば追い出そうとするが、ジャスミンは勝手に事務所を掃除したりカフェを手伝ったりして、次第にカフェの住人たちと親しくなっていく・・・

実際にこんな荒涼とした砂漠のど真ん中にカフェがあったら、そりゃ埃だらけになるだろうし、いろいろなものを清潔に保ってくなんてことはできないだろうし、運営していくのは大変だろうし、そりゃ心も荒むというものである。
普段こういう「心の交流」系はあまり観ないので楽しみ方がよくわかっていないところもあるが、最初ただの太ったドイツの婦人にしか見えなかったジャスミンが、だんだんかわいらしく妖艶に見えてくる。ストーリーと演出で見せているわけで、これがなかなかすごい。というかおっぱい見せすぎ・・・
また、ブレンダも手に負えない共感できないヒステリーにしか見えなかったのが、徐々にジャスミンに心を開いていき、家族へも優しくなっていく過程が、描写は多くないのにしっかり伝わってくるのが心地よい。
最後の意外な一言も気を持たせていて、そのまま話が完結するのではなく、後に引く感じがシャレオツですなぁ。
しかし、途中から不意に現れた、エリックという背の高い金髪の若いにーちゃん。カフェの隣にテントを張って、ひたすらブーメランを飛ばしたりフィリス(ブレンダの娘)の宿題見てやったりで、ストーリーにはほとんど影響しないまま最後までいるのだが、そんなに長いことそこで何やってるのであろうか。ブーメランの修行? マニアックだね~。

1987)

さかなのこ(2022)

ほぼ前情報なしにアマプラで観た。ネタバレ注意。といってもほぼさかなクンの半生だが・・・

魚が大好きな小学生ミー坊は、毎日魚のことばかりを考え、水族館に行き、魚の絵を描き、魚を食べている。
理解のある母、なんとか理解しようとする父、ほぼ諦めている兄に囲まれ、ミー坊は今日も魚だらけの一日を送る。
学校の友達もそんなマイペースなミー坊に呆れながら、その一途な思いを実は評価している。
ある日、学校の帰りに不審な男性がいた。彼はハコフグの帽子をかぶり、怪しいロングコートを着た、小学生からすると見るからに危なそうな男であったが、彼は魚好きであり、ミー坊と意気投合する。
男に誘われてミー坊は彼の家に行き、水槽だらけの部屋で魚を観たり絵を描いたりと至福の時間を過ごすが、いつの間にか夜9時を回っており、ミー坊の父に通報される事態となり、いつしか男の家は売りに出されているのであった。
高校生となり、ミー坊は変わらず魚好きの毎日を送っている。総長を始めとする不良たちともいつの間にか仲良くなり、カブトガニの孵卵に成功する。
高校を卒業し、様々な魚関係の仕事に就くが、魚のことだけを考えていると仕事がうまくいかず、どの仕事も長く続かない。
しかし、友人たちとの関わりの中で、ミー坊の魚好きに光明が差し始め・・・

主人公はどちらかというと男性よりの性別不明扱いだが、主演が「のん」なのでだいぶ女性寄りの中性的。
今の時代では、性別がどちらだとしても、小学生はおっさんの家に一人で行っちゃいかんわけだが、当時(さかなクンが1970年代生まれなので、40年くらい前)はまあこんなこともあるだろう、という感じだったな。
最初はさかなクンの半生を忠実に描こうとしているのかと思っていたが、「のん」によってだいぶフィクション色が強まるというか、ファンタジー寄りに見える。彼女の演技に引き込まれてしまうのだが、その背後に中年真っただ中のおっさんであるところのさかなクンが見え隠れし、さらには本人が怪しい男役で登場してしまったりするので、脳が混乱する。それが「ファンタジー」と感じるのかな。
正直、見ていてだいぶイライラする。というのもミー坊があまりにもマイペースで空気を読まないので、「そんなんじゃ世間の荒波を渡っていけないだろ」と突っ込みたくなってしまうからである。
ただ、これは誰もが自分の中に持っている不器用さの象徴として描かれているのであろう。イライラは同族嫌悪だったか・・・
こうして見て思うのは、やはり人間は要領がよくてすいすい切り抜けられるだけでは面白くない。「人間味がある」というのは、不器用さを背景に持つ生きにくさや生きづらさであり、それでもなお生きようと前を向く人に共感することを言うのだろうなぁ。小並感だけど。
あと、なんとなく仲良くしていたように見えた友人たち(柳楽優弥・磯村優斗・岡山天音夏帆などなど)が、それぞれの人生を生きており、それぞれがミー坊と交錯して、人生のターニングポイントになっていくあたりは見ごたえがあり、美しい伏線回収だった。
ということでホッコリしながら観進めていたのだが、観終わった後ググってみたら、かなりの部分が実際のさかなクンの本物エピソードだったことにびっくりした。全然ファンタジーじゃないやんけ!
一番ファンタジーだったのは本当のさかなクンだったというオチ。さすがでございます。

 

ドラゴンボール EVOLUTION(2009)

Prime Videoでたまたま見かけて観た。

いや、もちろんわかりますとも。世界中から酷評を受けたかわいそうな映画だってことは。でもそういう映画ほど気になるのも事実じゃない?
ということでダメなことはわかった上で、更に可能性を見出してみようじゃないか。

本来の超常的なパワーを隠し、通常の高校生としてアメリカのハイスクールにかよっていた、見かけはどう見ても白人の孫悟空。一人も友達がいない中、唯一の肉親である祖父によって格闘技の訓練を行わされており、その力は若い可能性によってますます強力に育っていったが、彼が18歳の誕生日、学校で知り合ったアジアン美人チチのパーティーに行っている間に襲撃され、祖父は死んだ。
7つの球を集めて神龍を呼び出すと、どんな願いも一つだけかなえてくれるドラゴンボール。これを狙ったピッコロ大魔王とその手下の仕業であった。
悟空は祖父である悟飯から勧められた師匠、武天老師や、ドラゴンボールの所在地を調べることができる ドラゴンレーダーを開発した発明家で冒険家のブルマ、盗賊として邪魔してくるが次第に仲間になるヤムチャたちと旅をしつつ、ドラゴンボールを回収していく。
そんな中武道会に出場しようと鍛錬を続けているチチに出会い、恋に落ちつつもドラゴンボール集めに邁進する悟空。
また、武天老師は可能性はこれしかないと思われるピッコロ封印のための準備を周到に行っていた。それを使えば自分の命が必要となり、二度と立ち上がれなくなるのがわかっていながら・・・
そして懸命の防衛もむなしく、7つのドラゴンボールはピッコロ側に奪われ、日食の日に行われる神龍を呼び出す儀式を阻止してピッコロを倒すべく、孫悟空たちは立ち上がった・・・

まあ正直シチュエーションはパクリばかりで恥ずかしげもない感じ。
・冒頭の修行シーンはジャッキー・チェン蛇拳酔拳
・おじいちゃんが送り出す、いじめられっ子の学生生活だが実は強いのはベストキッド
・ピッコロが吐き出したネバネバ戦闘員は効果音含めてエイリアン
・ピッコロの俳優がイケメンの白人顔し過ぎていて引く。もっと異星人感が欲しい。

などなど、「パクリだけど好きだから入れた!」という潔ささえ感じる。
ポリコレにも十分配慮があり、ヒロインのチチはアジア系で適度にかわいくなく、ヤムチャも大陸系アジア男性の非イケメン、敵側の手下は当時ハリウッドで孤軍奮闘していた田村英里子。懐かしい~!
ポポも威厳のある黒人住職になっていて、適材適所だった。
何より物語の展開が早く、多少雑で強引なところがあるにせよ、物語の疾走感を殺さないように配慮しているところには非常に好感が持てた。
ただなぁ、大猿のくだりはほんと処理が難しいところなのよ。
ああいう「正義の心で!」みたいなあいまいな処理はほんとは望ましくないし、
原作にある、シリアスなコアストーリー中もちょっとギャグっぽいアクションを
転換点にもっていく、というあたりは、さすがにハリウッドごときでは繊細過ぎて
昇華しきれなかったと思われる。

やはりあのスーパーウルトラビッグネームの劇場化ということで、本来であればAmazonNetflixのように金のある資本ががっつり本気で取り組むべきではあったが、たまたま版権を抑えたのが「日本漫画原作って、低予算でもまあこの程度盛り上げてアメコミっぽくしといたら面白くなるっしょ」的なノリの団体で、でも一応プロの仕事として妥協なく丁寧に作ったらこうなった、という落としどころだったのではと想像する。
あの原作ならもっともっと、100倍も1000倍も面白くできたのに、と憤慨するファンの気持ちはよくわかるのだが、たまたまこの版権の映画化をする人たちが、原作をモチーフにして好きな東洋系のガジェットを無秩序に、でも低予算で楽しく盛り込んだのが本作と考えると、そういうの、嫌いじゃない。作っている人の楽しさが伝わっている系は大好物なので、本作もストーリーを観進めながら「かなりいけるじゃん!」へと評価が変わっていた。もちろんそこには「あのすげえ原作を断念する」という断腸の決断が発生するわけだが、そこさえ乗り越えてしまえば楽しく時間を過ごせるよくあるハリウッド作品であった。
無駄遣いにもほどがあるのは間違いないわけだが。