カラマゾフの兄弟(フョードル・ドストエフスキー・1880)

あまりこういう世界名作文学的なものは読んでこなかったのだが、たまたまAMAZONで110円のKindle版を見かけたので、2021~2022の年末年始で読んでみようと思い、気軽にポチってしまった。
しかし噂にたがわぬ読みにくさで、やっとついこの間読み終わった。1か月半かかってしまった。

ロシアの地主フョードル・カラマゾフは、金にも色にも欲深い爺さんである。一人目の妻との間に一人、二人目の妻との間に二人の息子ができていたが、ロクに子育てもせず、召使に任せっきりで自由気ままに生きていた。
その結果、長男のドミトリイと、若い娘グルーシェンカの奪い合いをしており、財産の相続でももめてしまう。
そんな様子を冷ややかに見ている次男のイワン、そして家族から愛されている信仰深い三男のアレクセイ。
アレクセイは師事している協会の長老・ゾシマから篤い薫陶を受け、よりキリスト教への信仰を深めているが、ゾシマは高齢であり寿命を迎えようとしていた。
一方、カラマゾフ家の料理人であるスメルジャコフは、実はフョードルが作った私生児だという噂があり、イワンは彼から「フョードルがグルーシェンカと結婚したら遺産はそちらに行ってしまう」と吹き込まれて動揺する。
フョードルはグルーシェンカを家へ呼び寄せようと必死だが、それを知って怒り心頭のドミトリイが襲撃してくることを恐れ、スメルジャコフに合図を教え門番を命じる。しかしスメルジャコフは持病の癲癇の発作が起き、倒れてしまった。そこにグレゴリイが現れる・・・

とにかく本当に読みづらい。何で読みづらいかというと翻訳が古すぎるからという点に尽きる。まあ初出が1934年なので、その点で翻訳者・中山省三郎を責めるのは酷というものだ。それがいやなら新しい翻訳版を読めばいいのだから。110円に惹かれたツケがこんなところで回ってきたということだ。でも新訳は1000円するので、それなら手は出なかった。しょうがない。

そしてとにかく長いのだが、ほとんどが登場人物のセリフで占められていて、それがまあ小説っぽくなく、口語をそのまま自動筆記しているんじゃないのかと思わせるほどまどろっこしい、何も考えずに道端のおばさんたちが井戸端会議しているのをそのまま書き留めたような文体だからである。テレビでアナウンサーやタレントが話しているのは視聴者を意識したわかりやすいしゃべり方であるし、一般の小説に書かれているセリフもその前提で読みやすく整理された情報が並んでいるが、それはテレビや物語の中だけのルールであり、日常生活においては「えーと、あの、そうですね、このEXCELのこのマス、っていうかA6セルっていうか、そのかどっちょの強調されているところの、あの、その、Bって書いてあるところが押されているじゃないですかそれ?」みたいな話し方をしている方が一般的かと思うが、そういう口語体がそのまま文章化されているイメージである。
相手に理解してもらおうと努力して整理しながら話す人と違い、自分のことを言いたいだけの人がこうなりがちだが、そういう自分のルールで自分の言いたいことだけを言って自分だけすっきりしたいという欲望を語り手が持っていることをとことんまで表現するための手法であるように思われる。
この作品の登場人物たちは、ストーリーのメインに据えられている三男アレクセイを除き、ほぼほぼこの欲求が強い人たちばかりで、もうとにかくセリフが長くて冗長で読みづらいことおびただしい。
もちろん、これはあえてそうしているのであり、これがむしろ人間性をよく表しているのである、ということだと理解した。理解はしたがやっぱり読みづらいな~。
ただ、非日常的な聖人君子たちの話ではなく、市井に生きていて様々な悩みや葛藤の中で日々を過ごしている一般の人々を描いているという意味で評価されているのであろう。
おそらく若いころ読んでも何のことかさっぱりわからなかったのだと思うが、50代に入ってこの作品を読むと、「ああこういう勝手な人いるわ!」「これそのまんま〇〇にそっくりだ!」みたいなエピソードばかりで、おそらくこの感覚が世界共通だからこそ普遍的に読まれているのであろう。
つまりは不完全ながら愛すべき人間的な人々を描いている、ということか。
いやあ、でも、普段付き合うにはめんどくさい人ばかりだなぁ・・・こんなこと言ってるから友達少ないんだな。